5月2日
 Oshoの翻訳「トランス・ミッション・オブ・ザ・ランプ」の途中で、「クリシュナ」について語られた講話の一章を翻訳した。
 この本の原題は「Krishna : The Man and His Philosophy」で、ヒンディー語で語られた初期の講話
ネット上でも特にインド人に人気がある本らしいし、個人的にもなぜかクリシュナという人物に魅力を感じているので、いずれは全部を訳してみたい本だが、その分量は、先の「知恵の書」上下巻と同じくらいの長さで全22章。本にすると約1200ページくらいになるだろう。
 その中で、最も興味を引いた第15章「死後の生と生まれ変わり」を9日間で訳した。

 特におもしろい話が、毎年5月にヒマラヤの奥地で行なわれる「ウエサク祭」という儀式で、これは500人のラマ僧たちが一同に集まって仏陀のビションを共有する、というもの。 

 興味深いのが、この話は神智学の本、リードビーター著「大師とその道」にも書かれてある。ここでOshoは本物のビジョンを見ることと、それが幻想〜単なる個人の空想・投影との違いを説明している。その他にもエソテリックな興味深い話が多く語られている。早く全章を訳してみたい。





 
5月4日
 科学と宗教は、別に対立するものではなく、同じものを、それぞれ違った角度・視点から見ているだけの違いであって、
科学は物質的な観点から〜 宗教は霊的、心理的観点から〜 ということで、よく、科学的な新発見に騒ぎ立てることがあるけれど、
同じことを、宗教ではすでに何千年も前にわかっていたということはよくある。
 ただ、一般的に知られていないだけの話で・・・ だいたい、宗教が先に進んで、その後を科学がついて行く、というパターンが多い。
宗教が言ってきたことを、科学が裏づけする、という感じで〜〜

宗教の言い方というのは、だいたい抽象的、象徴的、詩的、文学的なものが多いから、
当時の、教養のない人々にわかるように、比喩的に語ったものが多いから、なかなか、その本当の意味、真意は伝わっていないみたい〜〜
 それと、権力者による作為やら、理解していない人による解釈などが混在して、宗教は、すごく誤解されてきているような〜〜 
本来あるべき価値をすごく落としているような〜〜〜

で、本当に、科学よりかは宗教、霊的な観点のほうが、より深いものが多いし〜〜
 例えば、科学では、人間は脳があるから考えられる、目があるから見られる、と言うけど、それは単に、現象の説明に過ぎないもので、
霊的に言うと、考えるという意志が脳という器官を作った、見るという意志が目という器官を作った、と言っているし〜〜 
その意志の力が、肉体を進化させていった、と言われているし〜

 これが、創世記で言う、初めに言葉ありき、の意味で、この「言葉」とは「意志」という意味でもあるのだから、初めに意志ありき、でもいいし、
だから、科学的な知識と宗教のそれとの対比なんてことは、共通点が見つかってすごくおもしろいのだけれど、
誰か、そんな研究をやっていないかな・・・・





 5月5日
 市民出版社より電話あり〜〜 翻訳した「アティーシャの知恵の書」は売れ行きが好調らしい。 ありがたいことだ〜〜
出版担当者も、この本はOshoの本の中でも、特に優れているとのことで、多くの人が出版を待ち望んでいたらしい。
和尚ブックフェアも、ここ10年で最高の売り上げだったらしい。

 それだけに、今になって、出版された本の訳文の稚拙さが見えてきている。書き直したい部分が、いくつか見つかっている。
もうどうしようもないけど〜〜〜 読んでいる人は、大目に見てください^^






 5月8日
 よく、スピ系のセッションやセミナーがあるけど、ああいうのは、あるひとつの状態・一瞥を見たり体験させてくれる。
〜〜それも、個人差によるけど〜〜
でも、それだけで解決にはならない。そこで見たもの、体験したことを、その後の生き方にどう活かすか、それが大切なところ。
それは、ほんの始まりにすぎない。
それは、その目標、道しるべを見せてはくれる。でも、それをどう使うかは、各個人次第〜〜〜

 そして、よく初心者に多いけれど、初めのうちは、すごく美しい世界が見えたりすることがある。
すばらしい体験をすることがある。光が見えたり、神との一体感を感じたり、至福を感じたり・・・ 

でも、それは誰にでも起こること。それは、ほんの始まりにすぎない。
この、体験した素晴らしい世界を他人に知らせて、自分は特別な人間である、すごいことができるのだ、ということを見せたくなる、
これがエゴ。

 普通の生活は、だいたいエゴを満足させることが主になっている。こういう人は、スピリチュアルでも同じことをやっている。
自分は特別な人間である、と意識すること。これがエゴの栄養になる。

 これがスピリチュアルのプロセスでの落とし穴。
特別な体験を求めて、いろんな瞑想、いろんなセッション、いろんなテクニックを変遷する。
実は、それを求めると、逆に特別なことは起こらなくなる。その期待、欲望が、それを起こらせなくしている。
初心者の時に起こったのは、何もわからなくて、何も期待していなかったから。

 で、この何も起こらない状況、何も特別ではない状況、当たり前の、普通の状況が、その後に続く。
これが一番大切なときで、この時に初めて、スピリチュアルの道は始まる。
 そこからは逆に、苦難の道となる。つまり、自分の闇、自分のネガティブと体面していくプロセスになる。
自分の仮面が一枚一枚剥がされていく。
だから、そのプロセスで、苦しみを感じていることは、正しい道を進んでいる証拠。
自分の本当の姿を、正直に見ている証拠。そして、もうこれで大丈夫、という地点はない。それは長い道のり。

 でも、こんなこと、一人で進むのは本当に大変だ。なぜって、逃げ道や、ごまかす方法はいくらでもあるのだから〜〜〜
だから、チベットの教えでは、生きた導師が必要だ、と言うわけだけど、現実的には不可能。
だって、誰が正しい導師なのか、どうやって判別するのか?

でも、キーポイントを見つければ、間違いなく道を進むことはできる。
そのキーが、be here now 今、と、ここ、にいること。今、この瞬間が全てである、と知ること。
そして、自分に起こっていることを、ただ観察すること、ただ観照すること、それに気づくこと、
どんな評価、価値判断もせずに、否定や拒否をせず、それを見守ること。
 だから、けっこう、めんどくさいものだ。
ただ、慣れれば、だんだんと、その見ることが深まっていって、見えているものが少しずつ、はっきりしてくる。
プロセスはゆっくり進む。





 5月10日
 私の霊的知識は、ほとんど神智学から学んだものが多い。 
その後、シュタイナーやらドーリルやら、他の霊書を読んだが、大方同じことを言っている。

 神智学は、約130年ほど前に、ロシア人のブラヴァッツキー夫人が始めたもので、この人も相当強い霊能力者だが、
彼女を導いたのが、モリヤ大師とクートフーミ大tという、ほぼ肉体を超えた聖者で、一応チベット・ヒマラヤあたりに住んでいるらしいが、
その目的は、既成の宗教を超えた真理を伝える、ということで、神の智慧として神智学なのだが〜 
その源は、上の二人の大師からの啓示と、ブラヴァッツキーの霊視と、古今東西の宗教の考察からなるのだが〜

 こう書くと、いろんな教えの寄せ集め、のように思われるかもしれないが、決してそうではなく、その真の意味の探究にある。
 霊視による観察、分析、検証によって集められた知識の集大成であって、その進め方は非常に科学的であり、
いわゆる信仰、信じることを強く否定する。
理解すれば、信じる必要はないからで、このあたりの姿勢は、和尚と共通する。

 実際、ブラヴァッツキーも、「イエス・キリストは受け入れるが、キリスト教は否定する」と言っている。
キリスト教がイエスの教えではないことは、いろんな霊能者がみんな同じように言っている。
和尚は、キリスト教が諸悪の根源のようにも言っている。

 いわゆるスピリチュアリズム〜シルバー・バーチなど、とどう違うか・・・ 
スピリチュアリズムは、霊界の仕組みを中心に伝えるもので、そこに、人生の意味、輪廻転生、カルマ、などが説明される。

 神智学も当然、霊界、死後の世界を伝えているので、スピリチュアリズムの知識は、神智学の中にも当然ある。
それに加えて、神智学が説明するのは、人間の霊的構造〜エーテル体、アストラル体、チャクラなど〜 
霊的進化のプロセス、宇宙の発生と進化のプロセス、物質の構造、古代文明、神話・伝説・宗教の意味、・・と非常に幅広い。

 だから、神智学の基礎を知れば、霊的な世界のことは、ほとんど知ることができるし、
〜〜こう言うと、失礼かもしれないが〜〜他のスピ系の話の、妄想的な部分がよく見えてくる。

 ただ、神智学自体は、後にアニー・ベサントがクリシュナムルティをマイトレーヤーにしようとする企てが失敗して、
おかしな方向に進んでしまったが、それは運動面の問題で、霊的知識の問題ではない。
 日本では、田中恵美子と仲里誠吉の二人が中心になって神智学の本の翻訳をしていたが、
二人とも死んでしまった今は、誰も翻訳を引き継ぐ者はなく、活動は下火になっている。
ようするに、神智学の本はまだほとんど日本語に訳されていない。
まあ、訳された「神智学大要」だけでも十分だけど、それ以上に進んでいない。そこが、日本特有の状況なのか、残念なのだ〜〜〜

 
 こう書くと、神智学はブラヴァッツキー個人が作った宗教みたいに考える人がいるみたいで、
実際にアマゾンにも、これを擬似宗教だと揶揄するコメントがあるが、これこそが、その人の理解のなさを示すものであって〜 
神智学全体を指導しているのは、上に書いたモリヤ大師とクートフーミ大師、その弟子でジュアルカル大師など複数いるが〜 
彼らはすでに肉体を超越したレベルの高い魂で、普通の人には見えない存在だが〜 
彼らはそもそも、釈迦が作った神秘スクールの系統に属する人たちで、
だから、もともとは釈迦の教えの流れを汲んでいるともいえるが、ここでも言えるのは、釈迦の教えと仏教とは違うということ。

こう書くと、仏教信仰の人に失礼だろうけど、日本に伝わっている仏教は特にそうで、
中国思想に毒された、文字として〜経典として伝えられるものしか伝わっていない。

 で、文字にできない教えが本質的なもので、それは師から弟子へと、直接伝えていくしかない。
それが、釈迦が作った神秘スクールで、まったく一般には知られることなく今日まで続いているのだが〜
 それを教えたのが和尚であって、だから、和尚を通して、釈迦の神秘スクールと神智学との関係がわかったのだけど〜
 教え、といっても、ようするに事実の説明、人間や命はこうなっている、世界や宇宙はこうなっている、という解説だから〜 
だから普通の宗教のように、特別な神を信じろとは全く違う。

 だいたい「信じる」「信仰」とは、「あなたは何もわからないのだから、ただこれを信じていれば大丈夫なのです」という、
ある意味すごく馬鹿にしたような、知性を否定しているところがある。
信じることが尊い、というのは、まったく権力的宗教が作った考えだと思っている。
信じさせることは、その人を自由に使える、奴隷にできるから。理解すれば、信じる必要はない。
理解できないから、信じる必要が出てくる。
あやふやで、はっきりしていないから、信じなければならない。
だから、ある神を信じさせる宗教は、まったく政治的、独裁的、権力的なもので、スピリチュアルでもなんでもない。
これは、和尚も神智学もはっきり言っている。

 で、ようするに、人間や世界の霊的事実の説明なのだから、誰が言っているか、などもどうでもいいことであり、
だから、神智学とか、和尚とか、シュタイナーとかいっているけど、それぞれ大同小異で、みんな同じことを言っている。

要は、自分の好きな人の教えを知ればいいだけで、それは本当に好みの問題。
どれが正しいとか、どれが優れているとか、まったく馬鹿馬鹿しいことで〜 
それだけ、この「世界」は多重的な、一面的には理解できない世界なのであって、本当に神秘なのであって、
だから物理科学を信仰する物質主義者が、見えないものは信じない、というのは、まったく狭い見方だというのがわかる。

 また、霊界をひとりの神によって統治されている絶対的な世界、と見る見方も相当狭い見方と言える。
まるで霊界を、北朝鮮のような世界に思っているのだろうか・・・そういうひとつの価値観でしか頑固に見れない人が、一番めんどくさい。 
だから日本でも、高橋信次やら大川隆法やら、特定の人にこだわるのは個人の自由だか、
それは、この神秘的な世界の、ほんの一面を伝えているにすぎない。それも、その人の見方で・・・
 だから私は、別に和尚だけにこだわっているわけではないし、神智学を絶対だとも思っていない。
ただ、現在のところ、最も幅広い霊的知識となると、このふたつ、ということになる。

 今はやりのアセンションの考えも、そもそもはこの神智学の知識とマヤの予言を組み合わせた、かなり作為的なものなのだが、
アセンションを信じる人は、このことを知らない人が多いみたい。トランス・ヒマラヤ密教を知れば、だいたいそれがわかってくるけれど・・・





 5月12日
本日、バイクを売却した。売ったのは、スズキ・ジェンマ125 ずいぶん古い型で、2年前に中古で8万円で買ったもの。
2年で走った距離は2000キロほど〜〜 もう、乗る機会はないようだし〜〜
ネットでバイク買取の査定を依頼したが、ほとんどの店からは、型が古すぎて、買い取れないとの返事、
しかも引き取り代がかかるとか・・・1万円!
半ばあきらめていた時、あるバイク屋から、一度見に行きたいとの電話〜〜 
どうせ売れないだろうと、あきらめてて、来ても無駄だ、と返事しても、夕方にやって来て、なんだかんだとバイクを検査して、
こちとら、よく売れても1000円くらいだと思っていたら、すいぶんがんばってくれて、5000円で買い取るとのこと!
願っても無い、ありがたいことで、すぐ売却した。
でも、この人、なんでこんなに積極的に買おうとしていたのだろう・・・・? 他の店では、まったく買う気を起こさせなかったバイクなのに・・・

私は、クルマの免許は無くて、バイクも、原付を取ったのが29才、中型二輪が35才の時。
この25年で、乗り潰したバイクは8台。内、250ccが3台、ホンダのフリーウェイとスズキのスカイウェイブ。あとはカブ。
250ccは、それぞれ走行距離5万キロほど走る。バイクにすれば、よく走ったほうらしい。
全車の走行距離を合計すると、約31万キロになる。
パンクやエンストはしょっちゅうで、速度違反による免停も二回。幸い、人身事故は無し。
それでも、撮影などで、けっこう奈良の山奥を走ったりしていたが、
そういう人気の無いところでのトラブルがなかったのは、やはりラッキーだったろう〜〜

250ccでは、いろいろ遠出をした。
比叡山、若狭小浜、伊勢、熊野古道、大台ケ原、那智大滝、高知、大分臼杵、やまなみハイウェイ、阿蘇、熊本・・・
一番きつかったのが、四国の足摺岬から淡路島を縦断して奈良まで帰った時。
後輪はほとんど溝がなく、いつパンクしてもおかしくない状態だったから〜〜
もう、こんなムチャは出来ないし、やりたいとも思わない。どこかに行こう、という興味も薄れてきたし〜〜 
さんざん行って来たからかもしれないし、目的地が、だんだんと観光化され、俗化され、自然な、素朴な趣が消えてしまって行く、
その変化を見てきたからかもしれない。





 5月15日
10月にインドに行こうか〜〜、と前々から思っていたが、その後まったく気分が盛り上がらない。行く気になれない。
年のせいで、守りに入ったのかな〜〜〜
インドはこれまで6回行っているから、だいたいの様子は知っているけれど、とにかく、いろいろと大変な国!
その大変さが、好き嫌いの分かれるところで〜〜 

まず、思う通りに事が進まない。順調に行ったとしたら、本当にラッキーで運がいい。
とにかく、インド人はウザイ!!!! めんどくさい! 信用できない!

仏教遺跡や寺院などには行きたいが、そこまでたどり着くのが大変だからな〜〜
順調に行けたインド旅行なんてひとつもなかったし〜〜 みんなトラブルだらけだったから〜〜
でも、あのインドの喧騒と、汚さと、臭いが、なぜか好きで落ち着けるのだから、私もヘンな人間なのだろう〜〜
でも、もう無理する必要はないかも・・・ やっぱし、年なんだろうな〜〜






 5月18日
インドでは、牛は神様として扱われている。インドの町のいたる所で、牛に出くわす。野良牛である。
デリーのような大都市の中心部でも、道の真ん中を牛が悠々と歩いている。車はみんな、牛をよけて走る。
牛にクラクションを鳴らしたり、追い払うようなことはしない。恐れ多くも、牛は神様だから〜〜 だから、牛肉を食べるなどは、もってのほか!
でも、どうして牛がインドでは神になったのか?

約5000年以上前に、インドにマヌという聖者がいた。「マヌの法典」で有名で、これは世界最古の法律とも言われている。
そのマヌが、牛を神にしたのだが、その理由は、
当時は当然、車などなかった時代だから、運搬などの移動手段は牛車だったし、畑を耕すのにも牛の力が必要だった。
当時の生活では、牛は必要な道具だった。だから、牛を大切にしよう、ということになった。それで、牛は大切に扱われた。
非常に現実的な話だ。

その時代から5000年が過ぎた現代では〜 都会では牛はもう必要ない。
それでも、都会の真ん中に牛が野放しにされて、インド人は牛に礼拝している。考えたら、滑稽な光景だ。
それでも、このように、現代生活には無意味でも、形式として受け継がれている慣習というのは、他にもいろいろあると思う。
日本の生活の中にも〜〜





 5月19日
和尚は講話の中で、実に多くの聖人や経典を取り上げていて、ほとんど一般には知られていない人も多く、
和尚を通して初めて知ったという人物も多いが、そういうのをまとめてみると〜〜

☆仏教ではもちろん釈迦(ゴータマ・ブッダ)だが、
和訳されたのは「般若心経」(和尚の本のタイトル)と「ダイヤモンド・スートラ」(金剛般若経)くらい。
「ダンマパダ(法句経)」について10冊の講話があるが、和訳されたのはそのほんの一部だけ。
「ブッダの42章の経典」という本もあるが、これはまだ未訳。これも興味がある。
釈迦の弟子で、最初に悟りを開いたマハーカーシャパについてもある。

☆チベット仏教系ではアティーシャ。
私が訳した「知恵の書」で、インドからチベットに仏教を伝えた仏僧で、すごく幅広い知識と智慧の持ち主だっそうだが、
日本ではあまり知られていない。

☆チベット・タントラでは、ほとんど和訳されている。
最初に訳された「存在の詩」がティロパ。ティロパはチベット仏教カーギュ派の祖で、後にナロパ、マルパ、ミラレパと続く。
ほとんど、日本での和尚の教えは、このティロパの経典から始まっている。

他にタントラでは、サラハ、シバがいる。シバは、ヒンドゥー教で三大神のひとりとして崇拝されているが、5000年前に実在した聖人。
112の瞑想法を確立した人で、これは和訳されている。
☆インド神秘家では、カビールについての講話が多い。あとゴラクやクリシュナ。クリシュナの講話も翻訳したい。
他には、ヨーガのパタンジャリや、ウパニシャッドなど。

☆スーフィーについての講話も多い。スーフィーはイスラム教の神秘主義派。
☆西洋では、イエス・キリスト、トマス、ツァラトゥストラ、ヘラクレイトス、ピタゴラス、カーリル・ジブラーン
☆中国道教として、老子、荘子。

☆禅に関する講話が最も多いが、個人的にはあまりこの分野は興味がない。禅は、人を食ったような話が多いからな〜〜
ここでは、道元、臨済、一休、白隠、達磨、馬祖・・・まだいろいろと取り上げているようだが、全部読んだわけではないので知らない。

☆女性の聖人・覚者として、ダヤ、サハジョ。

講話の中で、よく取り上げる人物が、グルジェフ、クリシュナムルティ、ラーマクリシュナ、ディオゲネス、
アインシュタイン、フロイト、ユング・・・ ディオゲネスとアレキサンダー大王との話は本当におもしろい。
番外として、ジョークの主人公であるスーフィーのムラ・ナスルディン。

個人的に、和尚が空海について講話していたら、どんな話になっていたか興味があるが、そのへんは縁がなかったのだろう〜〜
他にも、取り上げられた哲学者や詩人の名前は非常に多い。
それだけ多くの、すごい人間がこれまでに現われてきたということだが、それらがあまり日本に知られていない、というのが残念である。
ちなみに、日本人では菊池霊鷲(通称=太母-たも)という人が晩年に和尚に会っていて、彼女は和尚から、悟りを開いている、と認可されている。





 5月31日
イエス・キリストが磔にされた理由は、大衆を惑わした、というものらしいけど、
そう訴えたのは権力的な立場にあった当時のユダヤ教の長老たち。
ソクラテスも毒をもられて死刑にされているけど、その理由もイエスとまったく同じ。若者を惑わした、というもの。
釈迦も、伝統的バラモン教の信者から非難されている。
スーフィのアル・ヒラジEマンスールは、自分は神を見た、と言ったことで、両手足を切断されて殺されている。

そして共通しているのは、今、彼らは聖者として尊敬されている。 生きている時は非難されるが、死んだら尊敬される。
真理を説く、ということは、嘘や迷信を壊すことになる。 
だから嘘や迷信、権力者が作ったものにしがみついている人たちは、自分たちの特権を守るために反対する。
これは昔だけの話ではない。現代もまったく変わっていない。

和尚も、アメリカから追放された後、居場所を求めて世界を旅するが、どこの国からも入国拒否に遭う。 
その理由はやはり、民衆を惑わしている、という同じもの。
本当の理由は、その国の政府の嘘・欺瞞が暴かれるのを怖れたため。 
そして、和尚はアメリカ政府によって仕組まれた毒によって死んでしまう。
で、今は世界中で和尚を賛辞している。 死んだら聖者として奉られる。 同じ事がまた起こっている。

民衆を惑わす? 民衆を洗脳している、ということか? 本当は、民衆は政治や権力者から洗脳されているのだけれど〜〜 
そして、洗脳されているということは、安心でもある。 みんなも同じだから。 
みんなが同じ考え、同じ価値観を持っているなら、不安はない。 それが正しいか、真実かは関係ない。 
とにかく、みんなと一緒なら、心配ない。

それを疑い、そこから飛び出すことは、勇気がいるし、危険でもある。 何も頼れるものはない。一人ぼっちになる。 
何が起こるかわからない。 すべてがあいまいに、不確かになる。 
だから、誰もそうしようとはしないし、そうさせようとする人は危険視される。危険人物と見られる。
真理を説く人は、ただその洗脳(マインド・コントロール)から解放させようとしているのだが・・・

そして現代は、大企業の販売戦略と、マスコミに洗脳されている・・・





ほとんどの宗教は、世界の始まり、天地創造について説く。 現代科学はそれをビッグバン説としてかたづけている。 
唯一仏教だけが、そんなことを言っていないようだが・・・。
気になるのは、世界の始まりが仮にあったとして、ではその前はどうだったのか?という疑問がわく。 
どこかで思考停止しないと収拾がつかなくなる。
ようするに、人間の思考は、始まりの無い世界、あるいは無限の世界というものを受け入れられない、
考えられないようになっているのだろう。
始まりはない、永遠である、と言われても、どこか納得できないのだろう。 そこに問題があるように思える。

それは、人間の日常が、始まりと終わりの繰り返し、そのパターンで生きているからだろう。 
誕生と死、目覚めと眠り、入学と卒業、出会いと別れ、日の出と日の入り、・・・
その思考パターンで、世界を見ている。 その思考とは〜〜 「物事には始まりがあるはずだ」というもの。
問題はこの、「〜あるはずだ」という決め付けにあるようだが・・・。

釈尊は、このような質問を禁じた・・・ 仏教は、その思考パターンそのものを問題視している。





   2012年 5月
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