11月16日

 インドから帰って、撮影した写真を調べていくと、やっぱり悔いが残る・・・ 失敗したものやら、撮り損なったものなど・・・
サンチーのストゥーパを撮影したものは、完全にカメラの露出トラブルによる失敗〜〜 適正露出を確認して撮影していたのに・・・ 同じ設定で今撮影してみたら、何の問題もない。インドの暑さのせい? 太陽光線の強さのせい?原因はわからない・・・
 エローラ、アジャンタは撮影足りない。 両方で約600枚撮影したが、特に石窟内部の撮影は暗くて難しく手ぶれのものも多い・・・ 撮り忘れた石仏や石窟もある。 石仏は、撮り方によっていろんな表情がある。 だから撮り方は無限にある。 石窟ナンバー別の整理もしたいし〜〜
 エローラ、アジャンタは、それぞれ2〜3日かけてじっくり撮りたい。 だからアウランガバードには、最低1週間はいなければならないだろうな。

 一回の旅行では、なかなか全部満足はできないものだ。もっと、それ以上のものを求めたくなってくる。 だから、帰国した時は、これが最後のインドになるだろう、と思ったが、またインドに行くことになりそう・・・
 やっぱりインドに呼ばれている。 ただ、方位を考えると、次の旅行は6年後になるけど・・・・





 
11月18日

 今回のインド旅行は寺院・石窟などの撮影のためで、過去の宗教的栄光の時代を感じたかったため。ノスタルジーな旅・・・ 何に自分はピンと来るか、なぜ自分はインドに惹かれるのかを確かめるため〜〜〜

訪れた場所で最も強い印象を受けたところは、エローラとアジャンタ。 特にエローラには不思議な懐かしさを感じた。何か、昔ここに住んでいた、というか、ここを知っている、という感覚・・・
 エローラは5世紀から10世紀の間に造られたとされる仏教・ヒンドゥー教、ジャイナ教の石窟寺院。 アジャンタは紀元前1世紀から紀元後5世紀の間に造られた、といわれている。 カジュラホは、今回で3回目。ここの寺院は10世紀に建てられ、15世紀にイスラム教徒に破壊される。 ブバネシュワルの寺院は8世紀から11世紀に建てられる。 コナラクのスーリヤ寺院が13世紀。

 古い時代のインドを求めている〜〜 そのあたりに何かの懐かしさ、確かなものを感じてしまう。 そこで起こっていた精神的な動きを確認し、確かめたい、という欲求がある。
 インドの仏教では、仏陀が生まれたのが2500年前、ヴィマールキルティ、ナーガルジュナ、ヴァスバンドゥなどの優れた仏教徒は2世紀から5世紀にかけて現われてくる。インドから仏教が滅んだのが13世紀。 私が特に興味を持つ時代が11世紀。アティーシャがインドからチベットに仏教を伝えている。
 ティロパ (チベット仏教カギュ派の祖) が生きたのもこの時代。この時代を後に、仏教はインドでは廃れるが逆にチベットで発展してゆく。
 この、アティーシャ、ティロパについての日本語の本はない。断片的な解説がOshoやトゥルンパ、チベット密教の本の中にあるくらい・・・ アティーシャもティロパもインド人。

 Oshoの本からは、日本では知られていないいろいろなインドの聖者たちを知ることができるが、〜〜タントラの祖であるサラハ、カビール〜〜そういう人たちが生まれてきた、という特殊な国柄〜〜〜イエスやピタゴラスも修行時代にインドで学んでいる。

 Oshoによれば最も古い宗教はジャイナ教らしい。一般的にはマハヴィーラがジャイナ教の開祖だとされているが、マハヴィーラは24番目のティルタンカーラ(ジャイナ教の聖者の尊称)で、最初のティルタンカーラはリシャブデヴァという人物。彼は世界最古の神秘家といわれている。彼の名前は最古の本「リグヴェーダ」の中に書かれているらしい。リグヴェーダは、歴史学者によれば5000年前のものらしいが、ヒンドゥー教学者によれば9万年前のものらしい。
 これを知ったのは現在翻訳中のOshoの本から〜〜

 気になるのがOshoの700年前の前世の時代。700年前は13世紀、まさに仏教が滅んだ時代〜〜 なぜインドはこれほど真理の探求に貪欲なのだろう〜〜 現代のインドは外国人観光客から金を取ることに貪欲だが・・・

 私が求めるインドは過去のインド、13世紀以前のインドであって、現代のインドには興味はない。インドの、そのような精神探究史、聖者、宗教などを体系化・網羅した本はないのだろうか〜〜?





 11月19日

 仏陀の時代の自由思想家で、六師外道と呼ばれる者たちがいる。外道とは仏教から見て異端ということ。
彼らについては仏典「沙門果経」の中に記されているが、それぞれの異端思想が興味深い。

プーラナ・カッサパ・・・徹底的な道徳否定論者。罪を否定し、どんな行為も悪とは認めなかった。
アジタ・ケーサカンバリン・・・最古の唯物論者。霊魂、死後の世界、生まれ変わりなどを否定し、真理を体得した聖人も否定し、人間は単なる物質にすぎないと説いた。
パクダ・カッチャーヤナ・・・彼も徹底した唯物論者で精神的なものを否定した。
サンジャヤ・ベーラッティプッタ・・・懐疑主義者。全てを疑い、判断したり結論を出すことを拒否した。
マッカリ・ゴーサーラ・・・宿命論者。人間の意志や努力を否定し、全ては運命と偶然性、持って生まれた性質に左右される、と説いた。

で、
六番目にジャイナ教のマハーヴィーラが上げられるが、彼が外道と見られたのは、ジャイナ教が極端な戒律・苦行を強いるからなのか、彼が全身の毛を全て抜いて裸で生活したからなのか・・・「沙門果経」にはマハーヴィーラについては書かれていないようだ。

おもしろいと思ったのが、上の5人の外道たちの思想がとても現代的であること。2500年前の思想でありながら・・・
今の時代でも、ここまで極端でなくても、こんな考え方をしている人はいるような・・・?





 11月22日

 ジャイナ教についても最近までよく知らなかったけど、調べてみるとこれも興味深い。
 最も古い宗教で、霊魂の存在を認め、それも人間だけにではなく、動物や植物にもある、と言う。これは神智学と同じ考え。
 霊魂に「業」が付着するため、その「業」の作用で欲が生じ、欲の影響で輪廻〜生まれ変わりを繰り返す、という。その輪廻から解脱するためには「業」を消さなければならない。そのために五つの戒律に従い、苦行を行なう。だからジャイナ教は出家主義で、苦行のできる出家僧しか救われない、ということになる。
 仏陀の弟子である舎利子(シャーリプトラ)と目連(モッガラーナ)は、最初はサンジャヤの弟子であったらしいが、サンジャヤは六師外道のひとりでジャイナ教徒である。

 ジャイナ教の開祖は、一般的にはマハヴィーラと言われているが、Oshoによれば、開祖はそれよりも古いリシャブデヴァという人物で、おそらく人類史上最古の神秘家らしく、その名前はヒンドゥー教の教典「リグ・ヴェーダ」の中に記されている。 
 リグ・ヴェーダは紀元前十世紀・・・約3,000年前に作られた、と言われているが、ヒンドゥー教学者ロクマーニャ・ティラクによれば、それは9万年前のものだ、と言う。 その証拠は、リグ・ヴェーダの中に記されている天体の星の位置が、天文学的に9万年前の星の位置と一致するからだ、という。 ジャイナ教についてはまだ一般的には知られてなく信者の数も非常に少ない。

 日本で最初にジャイナ教を評価した人は南方熊楠だった。
 南方は、仏教よりも、キリスト教よりも、まさっているのは、ジャイナ教である、と言う。『すなわち、思考、言語、行為を善にして、語ることなき動物のみか、植物にまで信切(ママ)にするなり。この動植物を哀れむことは、仏教またこれをいうといえども、ジャイナ教は一層これを弘めたり。すなわち動植物みな霊魂ありと見て、病獣のために医療を立つるを慈善業とす。・・・階級の差をもって得道を防ぐことなく、誰人にでも涅槃に入り得ると主張す。』 キリスト教は人類の平等を説くが、ジャイナ教はその上に生類の無差別を主張し実践する点でよりすぐれているのだと南方は評価した。
 南方熊楠は明治時代の大変な知識人で、熊野の森を、明治政府の森林伐採政策に反対して、森を守った人でもあり、この人も非常に興味深い。

とにかく、その苦行や戒律は別にして、ジャイナ教が説く霊魂と輪廻・業の教えは、基本的に神智学やスピリチュアルの考え方とよく似ている。
そこに時代や民族を越えた共通性があるところに私は真実性を感じる。





 11月26日

 昨日、出版社より電話あり。「知恵の書」上巻は非常に売れ行きがよく、評判も上々だとのこと。Oshoの本の中でも最高だ、と絶賛する人もいるらしくて、その本の翻訳に携わった自分としても嬉しい限りで、下巻の出版を待ちわびる声が多いらしいが、
 出版社の話では、出版の順序として、下巻を出す前に別の本を出す予定だが、その出版が少し遅れる様子で、当初来年3月に予定していた下巻の出版は5月に延期されるとのこと。一度に数冊を出さずに、一冊ずつ二ヶ月ほど間を空けて出版するほうが販売数を上げるのにいい方法らしい。
 その後に予定している「トランスミッション・オブ・ザ・ランプ」は来年の年末に出版の予定らしい。この本も大著で分量が大きく、上下巻に分けて、上巻分の翻訳が済んだので、とりあえずその分だけ出版することになる。自分としては早くクリシュナについての講話を訳したいので、それはこの「トランスミッション〜」の後になるが・・・

 出版社側の要望では、Oshoが仏陀に関して講話したもので「超越の訓練」という本があり、全4巻でこれも大著だが、この本の2巻の中に、Oshoが光明(悟り)を得た時の様子が語られているので、これもぜひ出版したいという。私もいずれはこの「超越の訓練」という本も訳してみたいと思っていたので、ここでも出版社との思いが一致して不思議な感じがした。

 Oshoの光明を得た時の話は、以前に「反逆のブッダ」という本の中で抜粋されていたが、この本はすでに絶版になっている。1984年に出た、Oshoの前半生の伝記で若い頃の写真も載っているが、もう手に入らない。アマゾンでは本のタイトルさえない。貴重な本がここでも消えていた。あるサイトでは30万円というプレミアが付いていたし・・・!
 そしてこの「超越の訓練」、洋書さえ絶版になっている。だから私がこの本を4巻全部所有していることを知って出版社はすごく驚いた。超レア本だからだろう・・・
 で、現在、Oshoの翻訳をする人はほとんどいないらしい・・・ ということは、自分がやるしかない、ということになる・・・ もちろん自分としても訳したい本のひとつだから、やりがいはあるのでぜひともやっていきたいけど、トゥルンパも訳したいし、リードビーターも訳したいし、アティーシャの生涯、ティロパの生涯、タントラの本なども訳したいし・・・やりたいことが多い!というのも、これらの本も現在、他の誰も翻訳していない状況だから・・・

 実際、こういう本はあまり売れていないのかもしれない。一部の人だけが熱心に買って読んでいる状況で、その数はまだまだ少ないのだろうな。絶版になった本については、その存在すら知らない人も多いだろうし、なんとかならないものか・・・ 自分のHPでアップしていくしかないか・・・






 11月30日

ある人のブログに出てきた名前で、ちょっと気になっていた人だが、ネットで調べてみて、私がずっと前から感じていたことをズバリ言っていて、すごく共感した。

立川武蔵
1942年名古屋生れ。中学・高校時代を浄土宗立東海学園で学び、その影響で仏教、インド哲学に興味を持つようになる。名古屋大学文学部卒業後、ハーバード大学大学院に留学、75年博士号取得。名古屋大学文学部教授を経て、92年より国立民族学博物館教授。専攻はインド学、チベット学。

その対談の中で、特に納得したところ・・・

「立川〜
日本の仏教の形というのは、仏教全体の伝統から見れば極めて特殊であって、本来の仏教からはかなり遠いものになっているからです。 平安時代の末期まではインド的な仏教だったんですが、鎌倉時代になって道元とか法然、親鸞などが出てきて以後は、本来の仏教が持つ世界観とか論理、認識等が切り捨てられてしまい、念仏とか座禅といった形ある実践だけが継承されてしまいました。 つまり、日本の仏教は、インド仏教のごく一部だけを継承しているに過ぎないわけで、日本人が本来の仏教的思想を持っているとは言えません。

──そういえば、本当の仏教というのは、イメージと違って、ものすごく論理的であると聞いたことがあります。

立川〜 
そうなんです。それはもう論理的です。インドというと、なんとなく神秘的なイメージを持つ人が多いようですが、実際には宗教の場、学問の場ではしつこいくらい徹底的に議論します。仏教思想にはもともと論理学的な認識の上に立って世界を考える、議論し合うという態度があるのです。ですから、例えばお坊さんなんかにしても、日本では、われわれが理論的なことを言うと「黙れ!これは理屈じゃないんだ」と水をぶっかけられたりしますが、インドやチベットのお坊さんはものすごくしゃべります。」

・・・チベット仏教でも、僧たちはお互いに「仏とは何か、真理とは何か」について徹底的に議論する。原始仏典では、もう屁理屈の応酬かと思えるくらいの議論が展開している・・・

「──その点、日本人には宗教においても日常生活でも議論というものがありませんね。

立川〜 議論の部分が切り捨てられてしまったんです。日本人は、論理学とか認識論とか世界観に対しては非常に冷淡ですね。言葉を尽すということを、日常生活でもあまりしませんし、理屈好きな人は嫌われます。 論理が切り捨てられたため、あまり言葉を使わず理屈抜きで分かり合えるという独特の文化ができあがったわけです。例えば、俳句と和歌、お茶、お花といった非常に情感的、感覚的な世界です。もちろん、これは素晴らしい文化ですが、やはり人間には基本になるしっかりとした理論的世界観は必要だと思います。」

・・・「理屈好きな人は嫌われます。」
すごく実感している〜〜^^







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