11月1日
本来は・・・ 神社は、神を感じるところ、寺院は、自分を見つめるところ、
・・・のはずだったのが、
どちらも、願いを満たす、物欲を満たすための、都合のよい場所に成り下がってしまっているような感じがする。 

最近はやりの、パワースポットも同じ。 
かつての聖地が、どんどん俗っぽくなっているように感じる。

自分の住む部屋で、神を感じられたら、そこがその人にとっての神社なのだから、
そうすれば、わざわざ外の神社に出かける必要はない。

自分の内面で、自分をみつめることができたら、そこがその人にとっての寺院なのだから、
そうすれば、わざわざ外の寺院に出かける必要はない。

・・・これは理想だけど・・・
日本では宗教上で、神社と寺院は別扱いになっているけれど、外国ではそれは同じもの。 
ヒンドゥー教は寺院、キリスト教は教会、イスラム教はモスク。 
神を感じ(祈り)、自分を見つめる(瞑想する)場所。 

そこは観光地ではない。 
今の世の中、どうも勘違いしているようだ・・・





 11月5日
仏教でいう「無」と「空」 この違いか何か?

単純に考えて、無は無である。としか言えない。いや、言うことさえ不可能・・・
よくいう「無の境地」とか「無我」とか、あるけれど、あれはどうも嘘っぽい、というか、矛盾を感じる。
なぜなら、「無の境地」を体得した、と言っても、誰がそれを認識しているのか? 
なぜ、それが「無の境地」だとわかるのか? 
そこには、それを認識する主体がいなければ、それが「無の境地」だと認識できない。 
認識する主体がいるとなると、それでは全然、無 ではなくなる。 少なくとも、そこに、「何か」がいるのだから・・・

だから、「無の境地」を体得した、と言う人は、たぶん、その間は、気を失っていたのかもしれないな・・・

「空」は、空っぽ という意味なら、何が空っぽか、という前提がいる。 
つまり、「空」には、器のようなものは存在する。

だから、誰かが「空の境地」を体得した と言っても、そこには認識する主体 器 はいるのだから、
まだ、「無の境地」よりかは信用できそう・・・
ただ、空 「そら」として考えるなら、そこには空気が存在しているし、
空気とは、酸素と窒素とわずかの二酸化炭素の集合だから、少なくとも、完全に空っぽではないことになる。 
だから、空気に「空」という言葉を使ったのは、厳密に言えば、正しくはないのかも・・・

逆に言うと、「空」にはまだ融通さ、というか、曖昧さが許される余地を感じる。






 11月8日
 人間は、魂の成長のために何度も再生 -- 生まれ変わりを繰り返す、というけれど、
それにしては、生まれるたびに、一から、初歩的なことから始めている。
二本足で立つことを覚え、言葉を覚え、読み書きを覚えていって、だいたい一人前になるまでに、15年から20年かかる。

これって、ちょっと考えたら、前世で覚えたことを、また最初からやり直しているようにも見えるけれど、
詳しく見たら、それぞれケースが違う。
愛に恵まれた家庭に生まれることもあれば、冷たい親、冷遇な家庭に生まれることもある。
金持ちの家族、貧乏な家族など、環境はさまざま・・・

魂の成長のためには、どうも、いろんな環境を体験しなければならないみたい。
男としての体験、女としての体験・・・幸せな体験、不幸な体験・・・

霊的に高いレベルの人ほど、厳しい環境に生まれるといわれる。
ある意味 不幸になるために、苦しみを体験するために生まれてきている、といえるらしい。
不幸のどん底を知らないと、天国に行けないらしい。

そういう意味では、イエス・キリストの人生は、すごく象徴的なのだろうな・・・ 
磔にされる時の彼は、まさに屈辱の極みだったらしいから・・・





 11月10日
約3週間の長い土用がやっと明けたが、やっぱり、いろいろと大変だった・・・・ 
起こったことは細かくは言えないけれど、やっぱりこの時期は不安定なんだな・・・・ 
心にぽっかりと、穴が開いてしまった感じ・・・ 女子バレーの勝敗が気になる・・・

翻訳の方でも、出版社から翻訳済みの原稿のリバイス(見直し)が返ってくる。 
まあ、なんと、単純な勘違いによる間違いの多いこと・・・!

「とても読みやすい」とお褒めのコトバをいただけたのが唯一の救いで、若干、自信を失いかけ・・・ 
全部、最初から見直す、というのがけっこうめんどくさい。 
それと 頭があまり働かない、というか、いい日本語の訳文が思いつかない。

翻訳は、ホントに、日本語の表現力が求められる。 
ちょっと、今は、頭がサエていない状態・・・






 11月12日
なんで自分はこんなことをやっているのか・・・と、思う。 
なんで、和尚の翻訳なんかやっているのだろう? なんで、霊のことなんかを知りたがるのだろう? 
どこか・・・本当のことがわからないと、何か、すっきりしないのだろうな・・・

子供の頃は、何か忘れ物をしているような、思い出したいものがあるのに、それが何かわからない、じれったさ、をいつも感じていた。 
だから、安易に、神などは信じられなくて、理詰めの哲学にのめり込んでいたが・・・

特に一番影響を受けたのは、ショーペンハウエル。 
この人は、インドのバラモン思想ウパニシャッドから影響を受けて、彼から、西洋にインド思想が広まったらしいけれど、
このころから、私は、インドに惹かれていたのかも・・・

あとは、トルストイ。 彼は、キリスト教的無抵抗主義と言ったり、創造的な人生が最高の幸福だ、とか言っているけれど、
これは、和尚の、サレンダー(明け渡し)の教えにも共通する。

そういう教えに共感する、ということは、自分の深いところで、何か知らないものが、それに納得しているのだろうな・・・

で シルバーバーチとか、シュタイナーとかも、神智学とかも、そんな霊の世界も、確証はないのに、
どこか深いところで納得しているみたい・・・ それがなぜだかはわからない。

ただ、何か、光が見えたりとか、エネルギーを感じたりとか、そういうことに関しては、どこか納得していない部分がある・・・ 
たぶん、タイプが違うのだろうか・・・ やっぱり、自分は違う道を行っているのかも・・・

いろんな知識を知りたいのも、ひとつのものに囚われたくないから、
それは逆にいうと、自分が他人から影響を受けやすかったから、
そして、他人の言う通りにしたことは、みんな失敗してきたから・・・ 

みんな、いろんな事を言っているけれど、結局、どれが本当なの? ということが知りたいだけ。

たぶん、永久にわからないのだろうな・・・ 所詮、断片的にしかわからないのだろう・・・

だから和尚は、既成の知識に囚われず、自分が体験したことだけを受け入れろ、と、なんども言っているのだけれど、
自分の体験なんて、たかが知れているし、やっぱり、知りたいという欲求は強い。

これでも、ずいぶん迷信からは解放されたけれど 
そう いろんな人が固定観念に囚われているのは、少しずつ見えてきている。もちろん、自分も含めて・・・

やっぱり、根本は、自由になりたいのだろうな・・・ 
人間の決めたことに左右されたくないという気持ち・・・ 
社会で生きるためのルールのことではなくて、意味のわからない、道徳観念、宗教儀式、倫理観というものに囚われたくない、ということ・・ 

だから、いろんなことが知りたいのだろうな・・・





 11月15日
不思議なことだが、仏教には根本となる経典がないという。
数ある宗派に共通する経典がないらしい。
それでも大方の宗派で一番よく唱えられているのが この「般若心経」だろうが、
はたして、どれだけの人が、この経典に書かれてあることを理解しているのだろう?

自分は般若心経の教えを理解できている、と自信を持って言える人がいるのだろうか? 
私には、それは理解ではなく、その人なりの解釈に見える。 
理解と解釈は違う。 
解釈は、その人なりの意味付けだ。 それが正しいかどうか、どうやって判断するのか? 

般若心経は、理解するものではない、唱えるだけで徳のある、ありがたいものだ、と言う人もいるだろう。
だとすると、それはマントラのようなものなのか? だからそれは日本語ではなく、漢文のまま読まれるのか? 
つまり、言霊としての効果があるものなのか? しかし、本当にそうだとどうして言える?

それは実践するもの、体得するものだ、と言う人もいるだろう。 
しかし、理解せずして、どうやって体得できるのだろう? それに、それを体得した人はいるのだろうか?

そもそも、何をもって、それを体得した、と断言できるのか?
そして私は、あるひとつの答が返ってくるのを感じる。 「信仰とはそういうものだ。」と・・・ 
つまり、考えるな、信じろ、ということか。

ではなぜ「般若心経」なのか? まったくわからないことだらけである・・・






 11月23日
翻訳の進行具合は、全28章の内、24章まで完了。

上下巻の2冊に分けて出版の予定で、上巻は16章まで、
来年の春頃にブック・フェアーを予定していて、それに間に合うように出版したいらしい。

現在、翻訳は終わった上巻用の16章の、リバイス - 誤訳のチェック - を出版社の方でやっている。 
リバイスは3人でやっていて、チェックの終えた原稿がまたこちらに送られて、私が再度見直し、訂正をしているところ。 

このリバイスで少し問題が出た。 
チェックしている3人のうち、ひとりは男で、彼自身が翻訳経験があるらしく、
彼のリバイスは、誤訳のチェックというよりかは、彼の翻訳スタイルに書き換えているところが多い。

だから、他の女性二人のリバイスは、わずかな訂正しかしていないが、この男は、神経質らしく、びっしりと、細かく書き直してきている。
正直、嫌な気分にさせられる。 自分の翻訳を否定されているみたいだ。

これには、私からも出版社にクレームを告げ、
出版社からも、リバイスの人選のミスだと認め、以降は、彼にはリバイスをさせないと連絡があった。

人によって、いろんな解釈があるものだと、改めて感じたが、なまじ経験があるだけに、自分のスタイルに固執してしまうのだろう。 
なかには、ちょっと考えすぎでは? と思わせる部分もある。
それに、男のほうが、どうも、言葉に細かくとらわれやすいようだ。 

出版社からは、もう一度、別の人にリバイスし直すことでどうか、と言ってきたが、
まあ、これもひとつの勉強として、このまま進めることにした。
自分をどこまで信頼できるか、という勉強・・・ なんて、大げさなことはないとしても・・・ 
この男と、私との、翻訳力の比較にもなるし、けっこうおもしろい。 

ただ、やっぱり、面倒で、疲れるけれど・・・








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