9月11日
 市民出版社から、他の人も同じ和尚の本を翻訳していたのを、私ひとりにやってほしいと聞いたとき、私は、残りの分を私ひとりで、と思っていたが、他の人の訳文の印象が私のものと違うらしくて、そのへんは統一させたほうがいいらしいし、結局、全部私ひとりがやることになる、という意味だった。
 私としても、そのほうがありがたいけれど・・・なかなか翻訳する人がいないみたいだ。

 和尚は、1970年ころから1980年まで、ほとんど毎日弟子たちの前で講話をしていて、それが全てテープに保存されて本になっている。そして途中、沈黙の時期があって、1985年から1989年まで再び講話が開始されるのだけれど、当然これらは、何の台本もなく全て即興で語られている。一日約1時間ほどの講話時間で、だいたいひとつのテーマを10日くらい続けている。
 だから、一冊の本になるのは、約10日分の講話ということになるのだが、今、翻訳している本「知恵の書」は30日間の講話、だから、本にすると、3冊になるのだろう・・・

 すでに全体の半分は翻訳が完了していて出版社に送っているので、校正が済めば1冊分はもう出版可能、といえる。
 和尚の本は、初版が3000部ほどで、着実に売れているらしい。出版してくれる市民出版社も、1988年のツアーで和尚に会い弟子になった人たちによって作られたもの。1984年あたりの混乱・危機の時期に多くの人たちが弟子を辞めたりしているので、それ以降に弟子になった人は、そんな過去のわだかまりがないので、素直に和尚の世界に入ることができるのだろうな。

 私は1982年に弟子になっていて、この混乱の時期を経験してきたので、そのわだかまりから、嫌気がさして・・・・嫌気がさしたのは和尚に対してではなく、弟子たちの行動、ふるまいに対してであって、ここでも従来の宗教にある教祖崇拝的動き、権力志向が生まれてきたから・・・それから10年以上は、まったくかかわりになるのが嫌だった。

 正味、和尚に再び関わり出したのは、今年に入ってからだから、でも、こういう弟子の心理も、和尚は講話の中で、精神世界の道を歩む者がこういうことになることは自然なことだ、と語っているからすごいものだ。
弟子は必ずマスター(導師)に対して反感を持ったり、不信になったりする時がある。それは魂の成長の上では自然な流れである、という。その試練を越えるか越えないかが成長の鍵になる。だから、その時点で弟子を止めたりしても、それは本人の責任であって、まったく問題はない。
トゥルンパが取り上げていたチベットの古い諺が心に響く

  マスターとは火のようなものだ
   近づきすぎると火傷をする
    遠すぎると温まれない

だから退団しようとする信者を拒否したりしている巷の宗教団体の振る舞いなどは、まったく愚かでお話にならない。

・・・と、翻訳の話から、ずいぶん外れてしまったか・・・?






 9月14日
祈りと瞑想は違う。
祈りは、外へ向かう。祈りの対象がある。神、天使、聖母、守護霊、仏、先祖、・・・
瞑想は、内に向かう
瞑想には対象はない。いや、唯一の対象は自分だけ。ただ、自己を観る
祈りは、関係性でもある、
神と自分、守護霊と自分、ある意味、女性的ともいえる。
瞑想は、独り
ただ、ひたすら、自分と対峙する。ある意味、男性的ともいえる。

それは質の違い、タイプの違い。どちらが優れているとか、どちらが高いだとか、関係ない。
祈りの人にとっては、瞑想は合わない、ピンとこない。
瞑想の人にとっては、祈りはしっくりこない。
自分は、どちらのタイプか、を知ることがポイント。祈りの人が、瞑想はわからない、というのは自然なこと。逆もまた真なり。
わからないからといって、コンプレックスを感じる必要はない。
タイプが違うだけのこと。エネルギーの流れ方が違うだけのこと。

仏陀は瞑想の人
イエス・キリストは祈りの人
仏教は瞑想の道
神道は祈りの道

・・・と、本来は、そうだったのだろうが、現状はけっこう入り混じっているみたい・・・
私自身は、瞑想の道が合っている





 9月15日
翻訳していて、どうしても日本語に相当する言葉が見つからないものはけっこうあるが、
この「マインドフルネス」という言葉もそのひとつ。

仏陀が始めたテクニックだというのに、日本の仏教の言葉にない。直訳すれば、「マインド」は 心、思考、意識、と、意味は幅広い。
「フル」は 満たす、「ネス」は 状態。つまり、心(意識)を満たした状態、ということになるが、
ようするに、意識(気持ち)を、過去の過ぎ去ったことや、まだ来ていない未来のことに向けずに、現在この瞬間に置くこと、
自分の行動、動きのひとつひとつに意識的であること、そこに、価値判断や先入観を持ち込まず、ただ観察すること、  
という意味になる。

つまり、ビー・ヒア・ナウ BE NERE NOW 「今」と「ここ」にいること、これは特に目新しいことでもなく、
禅などでは当たり前にやっている修行だろうし、仏陀が編み出した、ヴィパッサナ瞑想も同じといえる。

世界中にいろんなセラピー、精神療法、修行法があるが、結局はこのテクニック「マインドフルネス」に集約されると言ってもいい。
マインドフルネス瞑想、という言葉も使われるが、そもそもこれが瞑想の本質だとも言える。 
「今」と「ここ」にいること。 すべてに対して、意識していること。
 価値判断をせずに、あるがままに観ること。

それなのに、この言葉に合った仏教用語が見当たらない・・・





 9月16日
呼吸を見つめてみる  呼吸は心理状態を表わす  緊張している時は、自分を落ち着かせるために深呼吸をする。
ゆったりした呼吸は、身体をリラックスさせることを、身体は知っている  
怒りっぽい人、せかせかして落ち着かない人は、だいたい呼吸が速い。
自信がない時、落ち込んでいる時は、呼吸が浅い  
ストレスを感じている時は、息が臭い。
息が長い、とは、命が長い、という意味  
息が合う、とは、調子が合う、ということ。
呼吸のパターンが性格を表わす。  

呼吸のパターンを変えることで、自分を変えられる。
ゆっくりと長い呼吸をすることで、静かで穏やかな自分になれる  自分の呼吸に意識することは、自分を知ること。

瞑想には、いろんな呼吸法がある  目的に合わせて・・・。
ただ、私はあまり自分をコントロールするのは苦手なので、ヨガにあるような特殊な呼吸法は、あまりやっても続かない。
それよりかは、ヴィパッサナのような、ただ呼吸に意識するやり方のほうが好きである。 

以前、瞑想中に深くまで行った時、吸気と吐気とがそれぞれ30秒くらいに長くなった時があった。1分間で一呼吸の長さになった。
無理してそうしたわけでなく、自然とそうなっていった。非常にリラックスしていたから、そうできたのだろう。

自分の呼吸に意識して、できるだけ、ゆっくり、深い呼吸を続けていれば、必然的に、静かで穏やかな状態になっていく。






 9月19日
 この世に生まれると、家族の一員になる。私にとって、家族は牢獄のようなものだった。
両親はまさに看守のような存在だった。

 世間でよく言う、家族的なつきあい、というのは良いというイメージで使われているのだろうが、
私にとってはまったくそんなイメージは持てない。
家族的なつきあいは、私にとっては牢獄で暮らすようなもの・・・ 学校も牢獄のようなものだった。
看守は教師。会社も牢獄のようなものだった。もちろん看守は上司、社長。

 海外旅行に行くと、特に出入国審査の時に、いかに自分がいろんなものに縛られ、管理されているかが実感できる。
まるで、ひとつの牢獄から別の牢獄への移動。自分は自由ではないことが実感できる。物質的な牢獄は仕方がない。
それが現実だから・・・要は、それをどうとらえるか・・・

この、自分は牢獄の中で生きていることを自覚すること、そこから精神的に解放されることを求めること、
それが、スピリチュアルな道とも言える。問題は、何が解放といえるのか・・・だろう。

カルマの法則・・・良い行いをすれば解放される・・・?神を信じれば解放される・・・?南無阿弥陀仏を唱えれば解放される・・・?
 いや、仏教では人すでに解放されている。牢獄とは、あなたが作っている幻想だ、という。
ただ、それに気づくこと、夢から覚めること、それが「悟り」「涅槃」という。

 スピリチュアリズムでは、人は自分の成長のために自ら牢獄に入っている、そして「死」が牢獄からの解放だという。
しかし、自ら死ぬこと=自殺=は新たな強大な牢獄を作ることになる、という。

・・・いろいろ、メニューは豊富にある。






 9月30日
 自分の残りの人生で、何が出来るか、何をすべきか、ということで、
私の場合、和尚の本の翻訳、ということに辿り着いた。

 30才より約20年撮り続けた写真も、情熱は醒め、フイルム入手も困難になり、カメラ・レンズも痛み出し、ちょうど止める時期を感じた。
他の、外面的な欲望もなくなり、失業により、時間はたっぷりありながら、経済的にはギリギリの生活、
という面からも、必然的に、翻訳作業が最も今の生活事情にふさわしいともいえるが、
そんな外的条件を考えなくても、翻訳は、自分にとっておもしろい。
和尚の本を翻訳しているから、おもしろいのだろう。

 とりあえず、現在翻訳中の本は、上巻を16章、下巻を12章に分けて、上巻は来年出版の予定らしい。
下巻は、私の翻訳完了を、あと一年後と見て、再来年の出版の予定らしいが、
今のペースだと、あと3〜4ヶ月で完了しそうだから、下巻の出版も、予定より早くなるかもしれない。
文字数で計算してみると、上巻で約600ページくらいになりそう。和尚の本としては、まあ普通だが・・・

 翻訳がおもしろいのは、謎解き、宝探しのような作業だから。
原作者…この場合は講話者=和尚だが、…の言いたいことを素直に伝えること、自分の考え、意見を入れることはできない。
ただ、自分を消して、通路、媒介となすこと、ある意味、霊媒のようなものだとも感じている。
だから、瞑想的でもある。
そして内容もスピリチュアルだから、その書かれてあることに考えさせられる機会が多い。

 翻訳しながら、その書かれてある内容に影響されて、自分の心の内は、ジェットコースターのように、上がったり下がったりしている。
特に、この本「知恵の書」は、非常に基本的なことが多く述べられてあるので、それはよけいに大きい。
だから、瞑想的でなければ、作業は進められない。だから、おもしろい。

 和尚の本を翻訳する人がなかなかいないらしいので、逆にそれだけやりがいがある。
それに、まだまだ訳されていない本が山ほどある。
私にとっては宝の山のようである。










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