8月1日

いつのまにか55歳  恥ずかしながら55歳  よく考えたら55歳  何かの間違いだろ55歳  信じられない55歳  なんだかんだで55歳
よくぞここまで55歳  大して変わらぬ55歳  好きにしてくれ55歳

☆いろんな年数・・・・
母親の腹から出てきて55年  性を知って37年  一人暮らしを始めて37年  パチンコを止めて30年  絵を描くのを止めて26年  
酒を止めて28年  タバコを止めて22年  女・・・は、まだ止めるつもりはない  初めてのインド旅行から28年  玄米食を始めて28年

霊の世界を知ってから27年  引越しした回数は20回くらい  働いた職場の数は10種類ほど
奈良に住んで26年  母親が死んで21年  父親が死んで7年  離婚して16年

今の家を買って14年  オール電化にして6年  太陽光発電にして2年
写真撮影を始めて25年  パソコンを始めて12年・・・今のPCは4台目  
ホームページを作って4年  気学の方位取りを始めて8年
失業して1年半  趣味人倶楽部に入って1年ちょっと

少年時代の、内気で、臆病で、気弱で、人見知りが強くて、ウツ気味で、自虐的で、気難しくて、
泣き虫で、わがままで、スケベで、罪悪感の強い子だった自分が、
よくまあ 今日まで生きてこれた と思う。 

生きていれば、なんとかなっていく。





 8月3日

一日の日程は、毎日ほぼ同じ。 
6時前後に起床。 窓を開けて部屋の換気。 洗面・朝食後、すぐにPCで翻訳作業。 
しばらくしたら便意をもよおすので、トイレに行ってそのまま朝風呂に入る。 

昼食まですーっとPCで翻訳作業。 午後は眠気が襲い、集中力も落ちるので30分から1時間ほど昼寝をする。 
自分にとって、午後の1時から3時までは一番だらける時間で好きではない。 

夕食時までPCで翻訳作業。 夕食後はPCでテレビを観る。 
最近好きな番組は「ザ・今夜はヒストリー」 初めの頃は見過ごしてしまって、生類哀みの令の徳川綱吉から録画を始める。 

夜11時までPCで翻訳作業。 ほとんど一日中PCで翻訳。

よく飽きないものだと自分でも思う。 特に好きだというわけでもない。 ほとんど英語もわからない。 
たぶん、すごく不器用な翻訳だと思う。 ただ、はやく完了させたいのだが、思った以上に原本が大著なのに後で気づく。 
まだ、やっと全体の半分近くを終了。 ここまで5ヶ月かかっている。

内容が1970年代の講話なので、今となってはどうでもいい話もあるが、それも訳してみないとわからないし、
その話の中にも大切なポイントがあったりもするから、結局、全部訳すしかない。
もう一冊、輪廻や前世について話された本も訳したいのだが、たぶんそれは来年になるだろう。 

一日中座りっぱなしなので、足が弱ってきているのは実感している。 
しかし、まさか翻訳三昧の人生になるとは自分でも思っていなかった。

昔、思い描いていた老後は、森の奥の滝の側で一日ボーッと暮らしたり、水墨画を描いて暮らそうか、と考えていたが、
まだその境地にはほど遠い。 

まだ老後でもないし・・・・

全宇宙の神秘を、どんな宗教にも偏らずに知りたい、というのが密かな夢・・・  
そのための文献が、日本ではまだまだ翻訳されていないものが多い。特に神智学関係は・・・  
売れないから翻訳しないのだろうな・・・

たぶん自分のように個人的に訳している人は多いと思う。  
そういう自主翻訳のネットワークが出来ないものか、なんとかならんかね〜〜〜





 8月5日

もともと私は、みんなで一緒に・・・というものが一番苦手である。
共同作業、集団行動というものが最もストレスを感じる。 
しかしなぜか、昔から、いろんな集団でリーダー的役割をやらされてきている。 
クラブ活動の部長、瞑想センターのリーダー、労働組合の委員長・・・・

私は性格的にも全くリーダーという器ではない。むしろリーダーを補佐する役割、女房役に向いている。 
これを初めて自分に気づかせてくれたのが気学による分析だった。 
気学によって本当の自分を知ることができ、しかも、今のままでいいのだ、と自分を受け入れることができるようになった。

そもそも、子供時代は転校の繰り返しで、友人は一年限りで別れてゆく。当然、幼馴染などいない。 
兄弟は多いが、自分だけ特別扱いを受けていたので、他の兄弟からの羨望の念を感じて、あまり心が通った思い出はない。

心が通いにくいので、愛情に飢えているため、ちょっとした優しいコトバに負けてしまう。それで騙される。 
そんな経験を繰り返すから、表面的には和を繕いながらも、心の底から許すことができなくなってきているのかも・・・

会うは別れの始まり、は私にとっては普通の出来事。 
だから、別れのつらさとか、寂しさとかは、もう感じなくなっている。 私にとっては普通の出来事。 
だから、そんな自分にとって、仲間とは何だろう、と思う。 
自分が、どこに行っても、新参者、よそ者だったのだから。

独りで寂しいだろう、とよく思われるが、私にしたら、独りがなぜ寂しいのか、よくわからない。 
私にとっては普通の出来事。





 8月12日

女性の笑顔を見ると、本当に癒される。 この笑顔を見たいがために、何でもがんばってしまう。
男は単純だ・・・
女性からの暴言は本当に恐ろしい。 その一言で、男としての自信をなくし、EDになることもある。
男は繊細だ・・・

しかし、男には女が必要だ。 幸せを求めるなら、不幸も覚悟しなければならない・・・
だから、仏陀は中庸の道を説くのか・・・・

男は、彼の母親から、その女性観が出来上がる。 
私の母親は、とてもコワイ女だった。 典型的な かかあ天下 の家族だった。 
父親は、仕事の都合でほとんど家にいなかった。 ほとんど、母親の支配下に、言いなりになって育ってきた。

だから、女は怖い、と感じるのだろうな・・・
その母親も、私が34歳の時に亡くなった。 それから、母親からの呪縛から抜け出すことが、少しは楽になった。
ほんの少し・・・だけだが・・・





 8月16日

ほとんど眠れず3時に起きて、また翻訳作業をしている。 頭が冴え渡っている。 
惑星直列のせいなのか? 変にエネルギーが昂っている。
ここ数日は、地球、水星、太陽、金星が一直線に並ぶ。 何か、緊張しあうエネルギーを感じる。
でも、まったくおかしなシンクロを感じる。 眠れないので、今やっている翻訳の、その文の内容が、眠りについての話なのだから・・・





今の自分に正直になること、今の自分にリラックスすること、今の自分を受け入れること。 
そのためのポイントは、価値判断をしないこと、他人と比較しないこと。
なんのための価値判断だろう・・・  例えば、男なら泣くな、とよく言う。 
なぜ? なぜ、泣いてはいけない? 私は泣き虫です。じゃあ、私はダメな男というわけですか?

私は一人でいるのが好きだ。 
それを、他人と関わることから逃げている、という人もいる。 じゃあ、私は弱い男というわけですか?

よっぽど人は私を批判するのが好きなようだ。 自分のことは棚に上げて・・・  自分の価値観を押し付ける。

若い頃は、丸すぎる、優しすぎる、物足らないと言われた。 それもある意味、ダメだしだね。 
それを言える人はよほど素晴らしい人格者なのでしょう。 
一番ダメ出しをしたのが自分の親だけど・・・  
仕方がないでしょ? これが自分なんだから・・・ と、言えるまでに、どれだけ時間がかかり、どれだけ奮闘したか・・・ 

そして奮闘してきた結果、わかったことがある。
自分で自分を変えることはできない、ということ。 
誰が誰を変えようとしているの? それは、変えているのではなく、作っているだけ。 元の自分を隠しているだけ。 
それは意識の深いところに残っている。 消えてはいない。 それはいつでも表に出たがっている。 
隠し通すには、抑え込むにはエネルギーが必要だ。 疲れたとき、気を抜いたとき、油断すれば、それは化けの皮を剥がす。

よくニュースでいう。 あんないい人が、なぜこんな犯罪を犯したのか・・・ いい人だからです。
彼は本当の自分を抑圧していただけ。 それがたまらなく爆発して、犯罪になってしまった・・・
今の自分、を全部調べあげる。 見たくない部分がある。 さらけ出したくない部分がある。 
無理して、そうする必要はないと思う。 ただ、なぜ、そうしたくないか、に気づいていればいいだけ。 

それも、あるがままの自分なのだから。

自分が好きになれない。 それもいいと思う。 自分を好きにならなければならない、と誰がが言う・・・  
これもひとつの価値判断・・・

自分が嫌い・・・ それに意識していること。 無理に変えようとしないこと、所詮、自分で自分は変えられないのだから。
今の自分にリラックスすること、それが結果として、自分を変えていく。
誰かを恨み続けている、過去にとらわれている、そうしている自分を受け入れる。
ようするに  自分と戦うことを止めること。





 8月18日

大方の人は、宗教というものにあまり良いイメージは持っていないと思う。 
それはいろんな宗教団体の活動が、あまりに醜いからだ。 

実際、彼らはまったく宗教的ではない。 その団体はただの権力集団にすぎない。 政治団体と変わらない。 
やっていることは、信者を多く獲得すること、自ら信じる教えが絶対・最高のものである、と説くこと、
それを信じない者に対しては非常な悪態をつくこと、これは全ての宗教団体がやっていることだ。

現実がこうだから、人は宗教嫌いになる。 
これは本来の宗教の姿ではない。 偽物ばかりがはびこっているから、本物がわからなくなっている。

宗教とは、特定の神を信じることではない。 
宗教とは、特定の宗派に属することではない。 
宗教とは、特定の教義・教祖に従うことではない。

それはあくまで、自分の純粋な魂の声に従うこと。 
<内在の神>、守護霊、仏性、ハイヤーセルフ・・・ 表現はいろいろあるが、みんな似たような意味だ。
仏教は確かに真理を説いている。 しかし、それは2500年前のインドでの教えだ。 それを丸呑みする必要があるだろうか。 
時代性と民族性を考えなければならない。

そして、日本人は知らず知らずに、儒教の影響を受けている。 
日本の仏教は儒教と神道も混じり合っている。 山岳信仰・修験道の影響もある。

いろんな教えがある。 どの教えに従うか、迷うのはしかたがない。 
初めから正しい道などわからない。 正しい道とは、自分に合った道のこと。

ただ、ひとつの教えだけにどっぷりつかることは危険だ。 特定の教え、特定の宗派に、自分を従わせる必要はない。 
偽物の宗教を基準にして本物の宗教までをも否定する人もいる。 

だから現代では、物質主義者が最も賢明だと見られる。 
神や霊を否定する人、全ては物質だけの世界だという人、科学で証明された世界だけを信じる人、
これも別の極端、単なる反動に過ぎない。

本来の宗教は、内面的、個人的なもの。 だから、あるがままの自分に従うことがポイントになる。
答えを急ぐから、既成の宗教に捉われてしまう。 答えは自分で見つけるもの、それには時間がかかる。
体験が必要になる。 

簡単に得られる答えには気をつけたほうがいい。 人から与えられた教えが、全部、自分に当てはまるわけではない。





 8月19日

例えば、キリスト教では、教会音楽、ミサ曲などは非常に美しい。
美術でも、その主題はほとんどがキリスト教のものが多い。それらも美しいし、キリスト教を知らなくても、それを楽しめる。

インドでも、ヒンドゥー教の神様たちはとてもカラフルに描かれている。神に捧げる音楽も無数にあり、それらも楽しめる。

しかし、日本の宗教はどうなのだろう?  
仏教美術といえば、やはり仏像、そして禅庭などがあって、その精神性の高さは認めるが、
楽しむ、という点から見たらちょっと??という感じがする。 
静かに楽しむもの、と言ってしまえばそれまでだが・・・・

音楽にしても、仏教音楽というものはあまり聴いたことがない。 お経を唱えているものはあるが・・・  神道の音楽では、雅楽?
ようするに、気楽に楽しめるものがない。

日本の宗教は、楽しむことを否定しているのだろうか? 何となく、重苦しい、深刻な感じがする。

民俗音楽のコミュでは、インド音楽が楽しめる。 ヒンドゥー神を讃える歌  その数は限りない・・・まだまだ掘り出し物が隠されている。
バッハの音楽のコミュでも、教会音楽などは数限りなく見つけられる。

では、日本の宗教音楽はどうだろう? ほとんど見つからない。 
アマテラスやスサノオ、仏陀や達磨をテーマにした歌があってもいいと思うけど・・・





 8月21日

昔、瞑想をしてた仲間からよく、「あなたは悲しい目をしている」と言われた。 「泣きたそうな目をしている」とも言われた。 
自分ではよくわからない。 これが普通だと思っているから・・・ 
それでも、自分が他人とは違っているとは、ずっと感じてはいた。何かかおかしい、とはずっと感じていた。 
しかし、自分で自分のことは、なかなかわからない。

瞑想のセッションのひとつに、アイコンタクトというのがある。 
パートナーを選んで、お互いに向かい合って、相手の目をじっと見る。 
私の相手は、私の目を見て、なぜか涙をぼろぼろ流し始めた。私には、その人がなぜ泣いているのか、まったくわからなかった。 
やはり、私の目に悲しみを見たらしい。

その数年後に、かなり強烈な瞑想を約2年間続けて、いろんなネガティブなものが放出された、と思うが、
少しはましになったものか・・・自分ではわからない。
無意識に封印してしまっている部分は、まだまだあるだろうな・・・ 
それが全部、表出されたりしたら、とても精神的には耐えられないだろう。 たぶん、気が狂ってしまうかもしれない。

だから神は、全部見せないようにしているのだろう。
過去世が思い出せないのも、そのための配慮らしい。 
今、この生だけでも精一杯なのに、過去世の悲しみまで思い出してしまったら、とても生きてはいけないだろう。 

自分の生とは、この悲しみをひとつひとつ癒していく作業なのだろう・・・






前回の日記で、私が何か悲しんでいるかのような印象を与えたかもしれないが、
あれは自分の過去を振り返った日記であって、今の自分の生活は、まったく日々是平安そのもの。

やりたいことをやって生きている。 といっても、やりたいことは翻訳くらい。
欲しいものがなくなってきた。 今、あるものだけで、満たされている。

我唯知足

今、ここにいる、それだけで十分。 BE HERE NOW
何処にも行く必要はない。

ただ、残りの人生は、翻訳作業に捧げたい。 それだけで満足。 他にしたいことは何も無い。
多分、一生かかっても全部は翻訳しきれないほど多くの、和尚の洋書が手元にある。
一冊を翻訳するのに、約1年かかるだろうから、何年まで生きられるかわからないが、まあ、20冊でも出来上がれば、上出来だろう。






 8月25日

私が生まれたところは熊本で、特に母方の実家のある玉名郡玉東町木葉が思い出深い。

熊本には3歳まで住んでいて、その後大阪に移るのだが、
よく3歳までのことは記憶に残らない、といわれるが、私は断片的にもよく覚えている。 
大きな柿の木、山羊の小屋、遠くに走る汽車・・・ 私は祖父母に愛されていたから、この3歳までが、一番幸せな時期だったのかもしれない。

この辺の地名は木葉(このは)と呼ばれる。 民芸品では木の葉猿がある。

この付近で生まれた有名人では、日本マラソン界のパイオニア、金栗四三がいる。
この人は以前、TV「知ってるつもり!?」でも紹介された。

木葉は明治10年の西南戦争の戦場になっている。 
郷土史によれば、ほとんど人の住める状態ではなくなっていたらしい。
薩軍の死体があちこちにほったらかされてあったので、村人たちによって埋葬されたらしい。 
戦利品の略奪も多く、民家の屋根裏に多くの槍、刀が隠されてあったという話も聞く。 
私の祖父が、西南戦争100周年のテレビ熊本の放送に出たらしい。
祖祖父が西南戦争当時は14歳だったので、祖父はその父から聞かされた思い出話を番組で語ったのだろう。

近くには官軍の病院跡や、となり町の植木町には有名な田原坂がある。

この西南戦争がきっかけで、日本赤十字社がここに誕生する。 近辺にも多くの西南戦争の史跡が点在している。
これまでにも何度か訪れているが、年々道路の交通量も増え、田圃だった所も駐車場に変わったり、
実家の藁葺き屋根の旧家も取り壊され、昔ののどかな風景は失われている。 

それでも、この地が自分にとってのルーツとなっている。





 8月26日

5月のカンボジアで、アンコール・ワットの朝日を観に行ったとき、私のそばに日本人の旅行客たちが集まってきた。 
朝日が見え始めた瞬間から、彼らは一斉にしゃべり始めた。
 「ほらほら出てきた!」「わーっ、すごい!」「きれい!」 ・・・・ 
そのおしゃべりは、私が写真を撮り続けている間、とぎれることなく続いた。

彼ら・・・正直いって彼女たちだが・・・は、静かに朝日を鑑賞するということができないらしい。 
何か、口に出さないと気がすまないのだろうか・・・  
まったく、朝日の美しさを味わうことができない時間になってしまった。

そういうことは、奈良の森を歩くときでも起こる。
ひとりで、森の静けさを楽しんでみようとしても、すぐに団体の旅行客たちが、がやがやとやってくる。 
やはり常にしゃべっている。 それも、話題は近所の噂話・・・・ 

せっかく街を離れて自然の中に来たのだから、そういう話は忘れたほうがいいと思うのだが・・・・
彼ら・・・正直いって彼女たちだが・・・は何しにここへきたのだろう・・・

そして私のことを不思議そうに、あるいは心配そうに見る。
 「よくこんなところへ一人で来れるわね。」とか・・・  「大丈夫?元気ですか?」と思われているようだ・・・ 
 静かにしていることは、元気がない、悩み事がある、としか受け止められないようだ。

例えば、静かに鳥のさえずる声を聞いたり、風の音を聞いたりすることは、彼らにはできないのだろう。 
たとえ聞いたとしても、すぐにその感想を口に出す。 無言でいることは、何か気まずいことなのだろうか?

奈良は自然の豊かなところで、これまで、写真を撮りにいろんなところへ行ったが、
まず、誰にも会わない、完全に静かな場所というところは、かなり遠い、人気のない山奥に行かないと無理だ。  

近場は、ほんとうに騒がしい。







   2011年 8月
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