7月8日
釈尊が最後に弟子たちに残した言葉は、このようなものだったと記憶している。
「自分の心の声に従いなさい。 たとえ、どんな偉い先生が言ったことだとしても、むやみに信じてはならない。
自分自身を拠り所として行きなさい。」
誰の言葉だったか忘れましたが、仏法にはこんな言葉もあったと思う。
「仏を外に求めてはいけない。 それは己の内にいる。 仏を求めるなら、己の心を見つめなさい。」
そして和尚の本から・・・
「あなた個人のハートに耳を傾けなさい。 非常に注意深く、非常に意識的に聞きなさい。
するとあなたは決して誤ることはないだろう。
そしてあらゆる手段を通してそれに従いなさい、それがあなたを連れて行くところなら、どこであれ行きなさい。
そうだ、時々それはあなたを危険な状態へ連れて行くだろう。 しかしその時は、覚えておきなさい。
それらの危険な状態は、あなたを成熟させるために必要なのだ。
そして時々それはあなたを道に迷わすだろう。
しかし、これも覚えておきなさい。 これらの道に迷うことは成長の一部なのだ。
何度もあなたは落ちるだろう。 また昇ってきなさい。 なぜならこれが、人が力を蓄える方法だからだ。」
ここで言っている「落ちる = fall」という言葉は、落ち込む、倒れる、堕落する、という意味合いを持っている。
失敗したり、迷ったり、落ち込んだりすることは、恥ずべきことでもなんでもなく、
そんな時の自分を非難したり、責めたりする必要はない、と思う。
全部、成長のために必要なことのようだ。
7月9日
今、翻訳している本から多くのものを学んでいるが、とくに、精神世界を探求する上での重要なカギが多く示されている。
もっと早くに、これを知っておけばよかった、と思いたくもなるが、だふん、早く知っていても、それは役に立たなかっただろう。
いろんな失敗を体験し、矛盾を感じ、落とし穴にはまり、裏を見てきたから、ここに書かれてあることが理解できる。自分の体験から納得できるからだ。
経験してきたから、理解できることがある。 闇を知るから、光のありがたさがわかる。
孤独を知るから、愛のありがたさがわかる。 貧乏を知るから、金のありがたさがわかる。
自分の人生の前半は、なんとなく、いろんな汚れを知ること、がテーマであることを薄々感じていた。
騙されやすい性格に生まれてきたのも、そのための方便だったのかもしれない。
霊的に見ても、人生で大切なことは、出世したり成功したりすることではなく、いろんな経験をして自分の幅を広げることだといわれる。
世間的には羨まれるセレブな人生、すべての物に満たされ、生まれつき何不自由なく生きている人は、霊的に見れば、大失敗の人生なのだそうだ。
何も学んでいない、という理由で・・・・ でも、幸せは、物や金では買えない、ということを学んでいるかもしれないが・・・・
イエスの言葉にもある
「貧しき者は幸いなり、そなたは天国を見出すだろう」
負けるが勝ち。 地獄を知らなければ、天国が何かわからない。
道に迷わなければ、何か正しい道なのかわからない。 間違わなければ、何が正しいのかわからない。
今の政治家や官僚が不甲斐ないのも、彼らはエリート、二世、三世のちやほや人生、成功への道まっしぐらで、
一流大学に入るために一流幼稚園からスタートする。
闇や挫折、失敗を知らない人生経験で、国民の気持ちが理解できるわけがない。
人生経験が狭いから、多様なことに対処できない。 器量が小さすぎる。
政治家や官僚たちは、霊的に見れば、大失敗の人生と言える。
7月10日
7月の吉方位は北西で、鳥取か島根(出雲)に行くかどうか迷ったが、結局行くのを止めた。
メチャ暑いし・・・・
方位取りというのは、あくまでサポート的な開運作用なので、棚からボタモチがあるわけではない。
ということは、何もしていなかったら、方位取りの効果もない、ということか? そのへんが、まだイマイチよくわからない。
いまの私の生活は、朝から晩までPCに向かって翻訳作業をしていること、気分転換にYouTubeに自作の音楽映像をアップすること、
それだけ。
一日中PCを動かしていると、PCの寿命がもたないだろうと、翻訳用にノートPCをヤフオクで購入した。
それでも毎日、同じことの繰り返し。 それでも自分のやりたいことをやっているので、別に不満もないし、欲もない。
つまり、欲も無く、現状に満足している者にとって、気学の方位取り、のみならず占い全般が何の意味を持つのか、と思ったりしている。
なんか、もういらないような気がしている。 欲もなく、願いもないので、先の事も気にしていない。
そんな人間にとっては、 占いは無力なんだろうな・・・・?
7月14日
2004年8月、熊本に行ったときのこと。
その頃は、幕末維新について興味を持っていたので、熊本出身の思想家・論客の横井小楠の記念館(
四時軒
)へ行った。
横井小楠は幕末の志士たちに大きな影響を与えた人物で、ここ四時軒では坂本龍馬とも対談しているらしい。
この時の訪問者は私ひとりだけだったので、ここのご主人と二人きりでいろいろ話をしたが、私が、この後何も予定がないということで、
ご主人は、ちょうど松本喜三郎という人形師の
展覧会
がやっているので、ぜひ観に行かれるといい、と強く勧められる。
この松本という人物も熊本出身で、その作品の写実性のすごさを、ご主人が興奮気味に熱心に説かれるので、その展覧会に行ってみることにした。
その日は、展覧会の最終日だった。
そして、その作品をみて、全身に鳥肌が立つほどの感動を受けた。
ただ、この人のことはほとんど知られていないらしい。 作品もほとんど失われているという。
彫刻家の高村光雲も、松本喜三郎の作品を見て驚嘆したという。 ちなみに高村光雲は、上野の西郷隆盛像を作った人。
この人形技術が、後に、義手や義足の製作へ繋がっていく。
この横井小楠の記念館へ行かなければ、松本喜三郎のことを知ることはなかっただろう。
そしてその日が、実物の作品を観れる最後のチャンスの日であったことから、何か非常に不思議なめぐり合わせを感じている。
7月15日
人の話を聞かない人がいる。 こちらが話しているのを遮ってまで、自分の話をしようとする人がいる。
絶対に自分の非を認めない人がいる。 常に正しいのは自分であり、間違っているのは相手である、という態度を取る人がいる。
こういう人と口論になることは非常にややこしい。 そんな人は、ありとあらゆる手を使って自分が正しいことを証明しようとする。
その心理は単純。 ただの負けず嫌い。 こういう人と付き合うことは、本当にストレスになる。
そして、こんなタイプの人が、以前の私の会社の上司であり、結婚していたときの嫁だった。
まあ、彼女はドイツ人だったから、その気性は日本人ばなれした激しさがあったが・・・・
未だに私は、彼ら(彼女)たちとうまく対応していってたのか、あれがベストだったのか、よくわからない。
どう付き合ったらよかったのか、自信がない。
そういう人たちに縁があったのも、何かの意味があったのかもしれないが、いずれにせよ、現在は、そういう類の人は、私の近くにはいない。
それだけでも、幸福感を感じている。
いくら話してもわからない、そんな人もいる、ということがわかっただけでも勉強になったのかもしれない。
7月16日
玄米を食べ始めて28年・・・
和尚の弟子になった頃、周りの仲間がみんな玄米食だったので、それに影響されて食べ出したが、
最初の印象は赤飯みたいな感じ、冷や飯を食べ慣れていたので、その固さはそんなに気にならなかった。
むしろ、歯ごたえがって、味深いのがおもしろかった。
当時は自然食ブームでもあり、無農薬ナントカというのが出てきていたが、私はそこまで徹底するにはめんどくさかった。
もともと、あまり食べ物には気にしないタチだから・・・
それでも、玄米を食べ慣れると、白米が食べれなくなる。 ものたらなく感じてしまう。味もそんなに美味しいとは思えなくなってくる。
最近は玄米の炊ける炊飯器が発売されているので簡単に炊けるようになった。
我が家はオール電化の家で、夜間11時から朝7時までは電気代が割安なので、朝7時には炊き上がるように前の晩に用意してタイマーをセットする。
玄米は一晩水につけ置きしたほうが、芯まで柔らかく炊き上げられるので、この方法で電気代の節約も兼ねて一石二鳥となる。
炊飯時の炊飯器の消費電力は1100Wだからバカにならない。
玄米が白米よりも栄養が豊富であることは、いろんなところで語られているが、あまり詳しいことは知らない。
それでも米屋によっては未だに玄米を買うことをめずらしがられる所もある。
玄米を売っておきながら、「胚芽米じゃないですか?」とか「五分つきですか?」とか念を押される。
実際、玄米を食べるとおかずはそんなにいらなくなる。 玄米だけで味が十分にあるから。
私は料理に関してはまったくめんどくさがりやだから、何も作らない。
毎日食べているものといえば、玄米に納豆、玉子、ゴマ、この四点は不動の品。
これに、カレーにしたり、天ぷらや魚の一品を添える程度。 そして食後に牛乳をコップ一杯とヨーグルトを少々・・・
これでいいのかどうかはわからないが、こんな食生活を続けて早15年。 その間、身体を壊した経験はない。
毎日同じメニュー 確かに野菜不足は自認しているので、その点はなんとかしないと、と思っている・・・
7月19日
なでしこジャパンが優勝!
気学的に見ても、なるほど、と思った。 開催地ドイツは日本から北西の方位。
今年の7月は、北西が大吉方位となっている。 その大吉運が日本を後押ししてくれていた。
それがよく表れたのが、最後のPK戦。 PKなんてほとんど運任せなところがあるから、一発目のキーパーのファインセーブは、まさに運の良さが出ていた。
スポーツの海外試合はすごく方位の影響が出やすい。
近頃のオリンピックで日本選手の成績が悪いのは、ほとんどの開催地が大凶方位であったことがいえる。
自国開催のほうが良い成績が出やすいのは、方位の影響を受けないから。
イチローが気学をやっていることは、気学研究者にとっては有名な話で、大吉方位のときにアメリカに渡って、今日まで好成績を出している。
菅総理は、気学の運勢で見れば、今年は最悪大凶の年。 やればやるほど、がんばればがんばるほど、悪くなる年。
最悪の運気をかかえた人が日本を引っ張っているのだから、こんな恐ろしいことは無い。
昔の政治家はみんな気学をやっていたらしいが、最近はそうではないらしい。
ここんところ、首相になった人はみんな大凶の時期に就任している。 だからみんな長く続かない。
皇族の方々は、絶対に大凶方位には行かない、という。 大企業のおエラさん方もこっそりと方位取り、お水取りなどをしているらしい。
徳川幕府が300年続いたのも、気学の実践によるものだという。
参勤交代などは、表向きは大名の財政圧迫が目的とされているが、
加えて、あえて大凶の時期に移動させることによって、大名の運気を落とす、という狙いもあったという。
そして、一般に気学が知れ渡ると、幕府体制が脅かされる危険があるので、わざと、でたらめの気学の知識を庶民たちに広めたらしい。
それで今日まで、気学はでたらめだ、という風潮が伝わってきているという。
私事では・・・
過去に、和尚の弟子になって、瞑想センターに移り住んだが、その方位が大凶方位「本命殺」だった。
その方位の意味は、「死以上の精神的苦痛を味わう」というもの。
自分を救うために移り住んだセンターで、自分の人生が狂い出した、という皮肉なことになる。
そして凶が凶を呼ぶ、で、九州から大阪に移ったときが最大凶方位「五黄殺」を犯してしまう。
それから約20年近く、いろんな面でその凶作用は続く。
知らずに行った旅行も、後で調べてみれば、すべて大凶方位だった。
でも、なぜ気学を知るようになったのか、いまだによくわからない。
藁をも掴む思いでいろんなものを探していた頃に、唯一開運のできる占い、として気学が目に飛び込んできたのだろう。
それから8年間、がむしゃらに方位取りをやって来て、その効果を感じられるようになったのがここ数年のこと。
50数年生きてきて、こんな平穏な生活が過ごせることは、いまだに信じられない。
ただ、あの「五黄殺」大凶方位の影響は60年続くといわれているし、
だから今でも水面下では、その大凶作用は残っているわけで、それを方位取りで抑えている状態なのだが、
完全にこの大凶作用を消すためには、それ以上の大吉方位で、その地に最低60日住まなければならないとあり、
そのための機会が、来年の10月、西方位として約4ヶ月のインド旅行を考えていたが、
ある人の霊視により、このインド旅行は危険だということで、止めた方がいいという話になった。
まあ、4ヶ月もインドにいるのも、たいがい無理があるように感じている。
最近は一週間の旅行でも、長い、と感じることが多い。
これからの大吉方位では、今年の12月に北西と南西がある。
またカンボジアに行くか、今度こそエジプトに行くか・・・
7月23日
30年近く前の話…
和尚の弟子になったばかり、3日間のリバーシング瞑想キャンプに参加する。
リバーシングとは、直訳すれば「再誕生」という意味。
人は誰しも、誕生時の苦痛がトラウマとなって、その後の人生に影響を与え続けている、
という洞察から、そのトラウマから解放されることを目的としたセラピー。
テクニックは単純な呼吸法。 口での肺呼吸をできるだけ強烈に、速く、深く続ける。 やることはそれだけ。
この呼吸法は、赤ん坊が生まれて最初にする呼吸法らしく、それをすることによって、誕生時の苦痛を再び体験し、
体験することで、それから自由になれる、というもの。
このセラピー体験が、私の人生で、最大の霊的体験をすることになった。
一日一回、一時間ほどのセッションを三日間行う。
リバーシングを始めると、肺呼吸のため、まず胸が熱くなってくる。呼吸を続けることがかなり苦痛になっていく。
喉が痛み出す。全身が痛み出す。特に手足の筋肉が引きつり、こむら返りを起こして動けなくなる。
この痛みに耐えながら呼吸を続けることは大変な努力だが、だから、セラピストの助けがないと続けられない。
当時は、かなり精神的に落ち込んでいたため、必死の思いでのぞんだことが、いい結果を生じたと思う。
誰しも同じ現象が起こるわけではなく、こんな体験をしたのは、その参加者(10人ほどいた)の中でも私だけだった。
それは、初日に、三つの顔が見え出した。
セッション中は目を閉じている。 額の辺りに、年老いた醜い顔が三つ、こちらを見つめていた。
二日目に山場が来る。 呼吸を続けて、その苦痛が頂点に達したころ、自分が母体の中にいる実感がしてくる。
何も心配のない、平和で心地いい時・・・ しばらくして、ある方向へ引き寄せられる。
非常に狭いトンネルを潜り抜けてゆく感覚。 それは頭の大きさしかない空間。 頭が圧迫されている感覚。
そして、出口が近いことを感じると、
もう後には戻れない、もうあの居心地の良かったところには帰れない、という寂しさ、名残惜しさ、諦めを感じる。
ひとつの敷居をまたぐような、見知らぬ世界に飛び込むような不安交じりの感覚に襲われ、
突然、明るくなり、光のシャワーを浴びる。
そして、バチーンと、何かが切断される強烈な衝撃を受ける。
その後、(その間も呼吸法は続けている) 足元からゆっくりと、ふんわりと暖かくて柔らかいものに包まれてゆく。
優しいエネルギーに包まれていく感覚を覚える。
そして、理由もなく、ただ存在しているだけで、最高の幸福感を味わう。
何もないのに、全てに満たされている感覚。 最高の喜び、笑い、充実感を感じる。
この体験が強烈だったので、三日目は、その効果を期待しすぎたためか、初日の謎の顔が再び現れたくらいで、ほとんど何も起こらなかった。
ここでわかったことは、誕生と、死ぬことは、同じ現象なのだ、ということ。
単に、ひとつの世界(住み慣れた世界)から、別の世界(未知の世界)へ移り行くだけのことにすぎない、ということを感じた。
それと、期待すると、得られない、ということも・・・・
セツションが終わっても、しばらくはハイな(高揚した)気分が続いていたが、
実家に帰って、母親の俗っぽい話を聞かされているうちに、最低のレベルまで落ち込み、最悪の気分を味わうことになる。
おそらく、セッションを受ける前よりも悪い状態になる。
ここでわかったことは、急激に上昇すると、また急激に落下してしまう、ということ。
一回や二回くらいの超常的な体験をしたからといって、それですべてオーケーになるほど、そんなに生易しいものではない、ということ。
最高の幸福感を味わった後は、必ず、その反動が来るということだ。
でも、この体験は自分にとってはすごい糧にはなっている。
もうそれ以降は、こんな体験はしていないが、それが可能であること、何もなくても、幸せであることが可能であること、
死ぬことは、生まれることであること、生まれることは、死ぬことであること、死ぬ感覚と、生まれる感覚は同じであること、
そして、すべてから解放されると、人は、本来はとても幸せな状態で存在していること、を知った。
それらがわかったことは、今でも自分にとって、大きな支えになっているような気がする。
2011年 7月
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