3月1日

 久々の雨が気持ちいい。なぜか、雨が好きだ。洗い流してくれているイメージがある。そして、雨上がりの、清められた空気がいい。
雨音も好きだ。雨が降り出すと、なぜかうれしくなる。

浄化している、という思いからだろうか・・・ 
こんな私は変だろうか・・・

それにしても、神様は、よくまあこんなありがたい自然現象を作ったものだ、と思う。
なかなか、人間の都合の良いようには降ってくれないが、古代では、雨乞いが最も重要な宗教儀式だったし、
奈良でも、水分神社というように、水に関わる神社が多い。
恵みの雨

ほどほどに降ってくれるとありがたいが、最近はますますそうはいかなくなってきている様子だ。
近頃の日本人の気質を反映しているのか、降り方が乱暴で気まぐれに見える。
それでも雨はありがたい。





 3月3日

エジプト旅行がダメになったので、かわりに、5月にカンボジア・アンコール遺跡へ行こうと思い立っている。
すでにエジプト用に旅行備品も用意してしまっているし、フィルムも30本ほど購入したし、
ただ正直いって、昔ほど旅行前のテンションが上がらないので、行こうか止めようか、優柔不断になっているところがある。

年のせいか、いろいろ経験してきたせいか、感動する心が薄れてきているみたいだ・・・・
ひとりでいるから、自分で自分を奮い立たせる必要がある。

それと今年は、気学的に見て、運気が最低に落ち込む年らしいし、慎重に事を行なうべし、ということだから、
旅行についても消極的になってしまっている。
でもまぁ・・・行ってみよう・・・

それと、3月26日には鹿児島・開聞町へ行く予定。 
開聞へは27年ぶり・・・か!
飛行機で行くので、宮崎の上空を飛ぶことになるかも
噴火の影響が無いことを祈りつつ・・・
また龍神様に出会えるだろうか、という期待も込めて・・・





 3月6日

特に海外旅行の日程を考えるのが難しい。何日あれば十分満足できるか、実際に行ってみないとかわらない。
他人が感動してお勧めしていても、自分も同じように感動するかどうかはわからない。
5月のカンボジア旅行・・・ 猛暑の時期らしい。現在のカンボジアの気温、最高で39℃ !!!
暑いと集中力が落ちる。つまり、観光する気がなくなる。

2年前の10月のインド・カジュラホ旅行も暑かった。

寺院の彫刻を全部撮影する、と意気込んで行ったが、実際に言ってみると、だんだんと見慣れてくる。
感動が薄れてきて、暑さにもバテはじめ、もうこれくらいでいい、十分だろう、と、思いはじめる。

しかし、帰国した後は、やっぱりやり残した気分になる。
満足感なんて、いいかげんなものに見える。まったくその時の自分しだいなのだ。

実際に、日を持て余した旅行もあった。あまり長く居すぎると、慣れてきて、飽きがくる。

アンコール遺跡を回るのに、一応4日半の日程を設けたが、これで十分かどうか、まったくわからない。もっと長く取ることもできたのだが・・・・
あんまり、暑いところに長く居たくないし、ちょうど、だれてくる頃かもしれないから、これくらいでいいかもしれない、と自分に言い聞かせている。
実際、行ってみないとわからない、だから、旅に行くのだけれど、

欲望は限りがないから、どこかで止めることが肝心だろうな・・・






 3月8日

人が死ぬと、周囲の人々は悲しむのが当たり前の光景だが、なぜ悲しむのだろう? と、思ってみた。

永遠の別れ、もう会えなくなってしまったから?
・・・死でなくても、別れは訪れる。

この世での楽しみが得られなくなってしまった人への哀れさに?
・・・この世は、苦楽は半々だと知れば、この世で苦しまなくてもすむ、ともいえる。

死の痛み、苦しみを味わったから?
・・・それは死ぬまでの過程にあるもので、「死」でなくても痛み、苦しみは他にいくらでもある。
死が最大の苦しみだ、と思うかもしれないが、それは死んだ本人にしかわからない。生きている人の想像、思い込み、とも言える。

感情に理屈はない! と、言う人もあるかもしれない。
ただ、言える事は、「死」というものが本当は何なのかわからないために、想像、思い込みによって、「死」を悲しむもの、忌み嫌うものと見てしまっているとも思える。

遠い過去から代々そのように思い続けてくれば、それが真実のように見えてくる。
いわゆる、迷信といわれるものだが。
私は、両親とも亡くなり、その死に顔を見てきたが、「ああ、あちらの世界に行っちゃったか・・・」という思いを持ったくらい。
こういうと、すごく冷酷に思われるかもしれないが・・・

霊界からの見方、スピリチュアルな見方からすれば、「死」はまったく不幸でも悲しむべきものでもない、と言う。
死は、魂の、肉体という重荷、足枷からの解放であり、むしろ喜ばしいことだと言われる。
死に伴う肉体的苦痛は一瞬のものであり、肉体から離れれば、その苦痛からも解放されている。
あとは、死んだ本人が、まだ苦痛がある、という幻想、思い込みを捨てることが問題となる。

おもしろいのは、黒澤明監督の「夢」という映画の中で、
ある村では、葬式の行列をお祭りのように、みんな楽しく盛り上げて行進している場面がある。
黒澤監督も、死をそのように見ていたのかもしれない。





 3月9日

スピリチュアル = 霊的・神的= なものは、言葉だけではつかみ難いが、
音楽によってそのエッセンスを感じ取ることはできる。
そもそも、音楽そのものがスピリチュアルなものだと思う。

人は、神的なものを感じて生きることが大切なのではないか、と思う。

特定の宗教を信じることではなく、形にとらわれずに、その真髄を見ること、感じ取ること、

音楽と映像からはそれを感じ取ることが易い。





 3月10日

なぜ音楽を聴くのか、
なぜ美しいものに魅かれるのか、
なぜインドに惹かれるのか、
なぜ旅をするのか

何かわからないけれど、魂の深いところで満たされていない空虚なものを感じ取っているから、
その渇きを満たしたい、という欲求が強いのだろう。

その渇きとは、
神的な世界と切り離されてしまっているために、その世界と繋がりたい、という欲求なのだろう。

現代は、物だけが満たされて、心は満たされていない状況だ。
誰も、どうしていいのかわからない。

そもそも、宗教とか寺院とかは、そのような魂の渇きを癒すためのものであったはずだが、
似非宗教の欺瞞・詐欺横行により、ほとんどの人が宗教嫌いになってしまった。

本来は清浄な地であったスピリチュアル・スポットも、マスコミの宣伝によって、ますます俗物化し、穢れ始めていってる。
観光化され、近代設備が整うにつれて、その霊的な「気」は失われていく。

今、そのような場所を求めるとすれば、
観光化されていない自然の中か、自分の意識を調整し、高めて、自分の住んでいる家を、霊的な「気」で満たしていくしかないが、
どちらにしろ、特に後者は難しいだろう。

人間は、神的な世界との繋がりを絶っては生きていけないものだと思う。
なぜなら、人間はそこから来たのだし、そこが魂の故郷だから。

ただ、それがどんな世界か忘れてしまっている。だから、その代わりになるもの、それを想い起こさせるもの、を求める。

それが、音楽であり、美であるのだろう。

そして、インドは、私にとって、そんな渇きを満たせる霊的なエネルギーが残っている、極めて貴重な国だと思う。

チベットにも、本来はインド以上の霊的エネルギーが存在しているのだが、
それは現在、中国によって破壊され、失われていっている。





 3月11日

政治屋の口から出るコトバは精神論ばかり。仕方がないか。何も知らないし、どうしていいかもわからないのだから・・・やっていることは内輪もめばかり。
民主党だからとか、自民党だからとか、関係ない。同じレベルの者同士がごじゃごじゃやっているだけ。
多くの人間の意見を討論すれば、そこから優れたものが出てくる、というのは幻想にすぎない。
バカがいくら多く集まっても賢くはならない。バカはバカのまま。
官僚は気の弱いオタク連中の集まり。彼らは机の上でしか考えたことがなく、現実を知らない。
いや、そのプライドから、知ろうとしない。紙の上に書かれたデータだけで判断する。

仕方がないか。彼らはそうやって、24時間机に向かってお勉強ばかりしてきたから、今の地位にあるのだから。
かれらにとっての世界は、机の上にあるデータが全て。だから、現実にそぐわないことばかりやっている。
でも、知識はあるから、能書きは上手い。だから、政治屋は彼らに負けてしまう。

日本から、反逆児は生まれにくい。出る杭は打たれる。みんな、自分がかわいいから、じっと我慢の子。
しかし、今のような、政治屋が役立たずになっている時というのは、変革のチャンスでもあるのだが、
その代わりになるものが、見えない。頼れる人間がいない。





 3月12日

こちらの昨日の天気が、何かおかしいことは感じていた。
すごく快晴になったと思ったら、また雨が降ったり、目まぐるしく天候が変化していた。
そして、変に、頭のまわりに圧迫感を感じた。

そして昼過ぎ、・・・こちらは奈良だが・・・、緩やかだが大きい横揺れを感じた。

今、できる限り、地震災害に関連した映像を録画している。
津波で流されていく家や車を見ていると、物のはかなさを感じる。人生で最大の買い物が、目の前で失われていく。
街が消えてしまっている。家が消え、基礎だけが残った映像が痛々しい。

被災者の方々には、本当にお見舞い申し上げます。

自分が被災者であったら、どうだったか、と思うようにしている。自分の持っているもの全てが、一瞬にして失われる。
まったくの無一文になる。それでも、生きていけるか・・・

それが、現実に起こっている。これを自分への問いかけとして見て生きたい。
物は生きる上で必要であるが、はかないものでもある。その「はかなさ」「無常さ」を感じていたい。

これを、神からの人間への警告だ、という見方もあるようだが、正直、そんな見方は好きではない。
そうかもしれないが、だから何なんだ、という感じがする。

意識のレベルが低いから、災害に遭ったのだ、とでも言いたいのだろうか?
被災された方々にそんなことを言ってなんになる、という思いがする。

意識の高い人たちは、今現在、救助活動をしている人たちだ。
ただ、これを機会にみんながひとつになって助け合っていることがありがたい。

世界のメディアがトップニュースでこの地震災害を取り上げている。
世界的な関心を集めていて、世界から救援の声が届いている。災害を通して、世界はひとつになろうとしている。

人間はまだ、捨てたものではない。






 
3月13日

Yahoo!ニュースで、地震被害者たちの被災地でのマナーのよさに、海外からの賞賛の声を知った。

実際、災害時での日本人の冷静な行動は、外国人から見たら信じられないことらしい。
私は過去にドイツ人と結婚していたが、ちょうどその時に、阪神大震災に遭った。
その時も、被災者のマナーのよさに、彼女が驚嘆していたのを思い出す。
買出しや配給を得るために、順序よく並ぶという光景は外国では考えられないという。
災害に乗じた暴動や略奪は、外国では当たり前の光景だという。
上のようなニュースが取り上げられているということは、やはりそうなのだろう。
日本人の精神性はすごく高いのだと思う。
もっと、日本人であることに自信と誇りを持っていいのではないだろうか?
日本人のマナーのよさは、確かにいろいろとマナーの悪い人間も多くなってきているけど、
それでも全体的に見れば、世界一ではないだろうか。





 3月15日

多くの人々、世界中の人々が、被災者へ愛を送っている。援助、祈りを送っている。
震災が人の心を変え始めている。
震災で犠牲になった人たちが、世界を変えた、と言ってもいい。多くの人たちが、被災地復興のために働いている。
確実に、人間の霊性が高くなっている。
世界が、日本から、多くのものを、学び始めている。これは、気付きの場、となっている。
ここから、何を感じ取るか、何を学び取るかは、人それぞれだと思う。
しかし、確実に、強烈なメッセージを、世界に投げかけている。そして、多くの人が、それに応えている。
日本が、世界を変え始めている、とも言える。
だから、犠牲になられた人たちの死は無駄ではない。
おそらくは、数万人の犠牲者と、数十万人の被災者の苦難の生活が、世界、数億人の人々の心に、愛の光を生じさせている。





 3月21日

特にこのような大災害で亡くなった場合、死後の霊はだいたい混乱状態、パニック状態に陥っている。
自分が今、どうなってしまったのか、わからない様子だろう。
霊界の方では、地上の災害などは予知されているそうだから、亡くなられた霊たちへのケア、受け入れ態勢は万全だろう。

ここでそれぞれ自分の守護霊と体面し、アドバイス、ガイダンスをうける。
要点は、自分の死を早く受け入れることだ。
自分が死んだということに納得した霊は、その先の世界 幽界から霊界 へ進むことがスムーズに成る。
いわゆる、浄化、成仏する、ということだ。

ここで、その霊が霊的知識を持っていることは大きな助けになり、役に立つ。
霊を否定していた唯物論者はここでてこずらせる。自分が死んだことをなかなか信じようとしない。最悪、それが地縛霊、幽霊となる。

死体を火葬することは、霊が自分の肉体への執着を断ち切るために一番いい方法だ。土葬は、今回は仕方がない。

遺族からの、死者への呼びかけは必ずその霊に届く。
問題は、霊(死者)からの遺族への呼びかけが、遺族にはわからない、ということだ。・・・霊感の強い人はわかるだろう。
そのことから、自分が死んだことに気付く霊もいる。

ただ、この災害で亡くなられた霊たちは、いましばらくは、無意識状態にあるかも、まだ、気を失った状態にあるかもしれないので、
遺族の声に応えられるには時間がかかるかもしれない。
しかし、その声に応えた霊は、その遺族の側に来ている。
災害によって亡くなるということは、何も神の怒りでも天罰でもない。
これをいろんな面での学びの機会にするべきだろう。

一番わかることは、物のはかなさだろうか。
物質は、いずれは壊れて消えてしまう。物に執着しすぎることの虚しさを感じさせる。

特に地震などで亡くなった霊たちは、このことを魂の奥に強く印象付ける。
そこから、次の生まれ変わりの生では、より精神的な仕事をしようとする衝動を強く持つ。
ただ、これは断定的ではない。その可能性が強くなる、ということだ。

ただ、今回は洪水によって亡くなられているために、来世では、水に対する恐怖心が残ってしまうかもしれない。
人には、いろんな恐怖がある。 
高所恐怖症、閉所恐怖症など・・・ これらは前世で受けたショック、傷などが今世に影響を与えている。






 3月22日

気学のこよみで地震が起きる年月にパターンがあるのかどうか調べてみたが、一般的には、五黄の年は災害が起きやすい。
古くは、1707年の富士山が噴火した宝永大地震、
1923年の関東大震災、
2004年の新潟中越地震はいずれも五黄の年。

月運に三碧が来た月も大地震が多い。
1993年の北海道南西沖地震、
1995年の阪神淡路大震災、
2004年の新潟中越地震もそうだ。

ただ、今回の地震は五黄も三碧も関係ないが、年運と月運がどちらも同じ七赤となっている。
また、日運では地震発生日の1日前がやはり七赤だった。

この年と月が同じ運気の他の地震では、
関東大震災が年月ともに五黄、
他に1944年の東南海大地震、1983年の日本海中部地震など。
関東大震災以降で10回ある。

特に被害の大きかった地震を中心に探ってみたもので、必ずしも、このパターンの年月で起こる、というものではないが、
用心のためにもひとつの目安としてとらえてみてもいいのではないか、と思う。

これを踏まえて見ると、将来地震の起こりそうな年月が割り出されてくる。
それでいくと、今年は7月と12月。要注意年が2013年で、年月が同じ五黄になる8月、月運が三碧になる1月と10月。
ただし、あくまで可能性として、であり、どこで起こるかはわからない。

しかし、いずれにせよ、日本は地震活動期に入っているのは確かなようである。





 3月24日

宮城県石巻市にある「石ノ森萬画館」も被害にあったらしい。

石ノ森章太郎は私が一番影響を受けた人で、ほとんど彼の漫画を読んで育った。
もともとは石森というペンネームで、本人としては「いしのもり」と呼んでほしかったのだが、みんな「いしもり」と呼んでいたので、それで後になって石ノ森と変えたといわれている。
私は今でも、石森章太郎 という方が馴染み易い。

一番好きな作品はやはり、「サイボーグ009」 特に、0010や0011が出てくる話、地下帝国ヨミの話がいい。短編の「クビクロ」も泣かせる。

「ジュン」は、当時の自分の心の映しのようなものだった。

「マンガ家入門」は私のバイブルとなり、マンガ家になることを夢み、マンガ同好会などを結成しては回覧本を作ったり、新聞や雑誌に作品を投稿したりしていた。私の作品は完全な石森マンガのコピーだった。
「マンガ家入門」の中に載っていた「龍神沼」という作品も大好きで、龍神の存在を知ったのもこの作品からだ。

「佐武と市捕物控」はテレビアニメの方が好きだった。「怪傑ハリマオ」も石ノ森氏の作品だと知ったのは、実はずっと後になってから。
「仮面ライダー」が出たあたりから、興味は薄れていった。やはり若い頃の作品がいい。
超能力や神秘的な世界に興味を持つようになったのは、ほとんど石森マンガの影響からだ。

その絵も魅力的だが、構図の取り方がすごくいい。
その構図の感覚が、後の、自分の写真撮影にすごく生かされてきた。
今の自分を作ったのは、ほとんど石森章太郎のマンガだと言ってもいい。


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本来なら今頃、エジプトに行っているはず 日本の惨状を見届けるための巡り合わせか  
仮に行けてたとしても、こんな後じゃ楽しめなかっただろうな・・・・ 
生まれてからずっと住んでいた家が失われてしまった人の悲しみはどんなに大きいだろうか。
一瞬にして、人生の思い出全てが消えてしまったのだから

自分は熊本生まれ、大阪育ちで、高校までに10回近く転居している。
高卒後も、京都、東京、福岡と、転々とし、今の奈良に落ち着いたのは、25年前、それでも今の家は、奈良で3番目の住み家で15年目。

だから、今住んでいる場所にはほとんど執着がない。というより、どの場所にも執着がない。

逆に言えば、どこにでも住める。
引越しが日常的な人生だったから、家に対する愛着も少ない。
どうも 仮住まい という感覚がぬけない。
もともと、中古物件だったし、間取りもそんなに気に入ってはいないし、家相風水的にもあまり良くないし、ちょっとごたごたした事情で買ってしまった家だから、いまだに何か、居心地が良くない。

自分の家なのに、その意識が薄い。
まあ、贅沢なことを言っているようだが、そういう、執着心が消えてしまうような生き方をしてきたことが、逆に、恵まれている、とも思える。
自分が大切にしてきたものも、親に無神経に捨てられてしまったし、過去の思い出の品などまったくない。
無一文になったこともあったし、ずーっと独りだし、だから、免疫はできているのだろうな・・・・

だから、アセンションだろうが、地球滅亡だろうが、別に気にならない。また、ゼロに、無に戻るのなら、別にかまわない。
覚悟はできている。





 3月25日

 久々にまた、和尚の世界に戻り、翻訳の作業を遅々とやり始めた。

文章力も英語力もまったくないので、別に出版するためのものではなく、全く自分が読みたいのための作業。
自分が理解できればいいことが基準だから、たぶん誤訳だらけになることだろう。

 翻訳する原本は、和尚が、チベット仏教のマスター、アティーシャについて語った講話で、
大雑把な翻訳は全体の6分の1だけ終わっているが、それは1993年にやったもので、とりあえずその部分の清書を先に済ます作業。
まあ、飽きずに続けられても、全部を翻訳できるには1〜2年はかかりそう。

 22歳頃に最初の彼の本を読んで、26歳で弟子になったのだが、まあ、本を読むのと、実際にその世界にかかわるのとでは大違い。
その瞑想生活は約2年だけだったが、ほとんど混迷、混沌としていた。
ちょうど過度期に当たっていたかもしれないが、いろんなことが起こって、多くの日本人の弟子たちが、和尚に不信感を持って、オウム真理教に移っていった。
私の友人にもひとりいたが、彼がその後どうなったのかはわからない。
私はその頃から、組織というものの権力志向がわかってから、いっさい和尚や弟子たちとのかかわりから身を引いた。

 しばらく、神智学やスピリチュアル、シュタイナーの本などを読んだりしてはいたが、それぞれにどうも偏りがあるのを、最近感じ始めている。
スピリチュアリズムは、霊界の世界を詳しくわかりやすく伝えているが、人間の霊的な構造についてはあまり深くない。
その点では神智学とシュタイナーが非常に深く探求しているが、
それぞれ西洋からの見方でアプローチしているので、どうしてもキリスト教の色がついている。

それに人の成長のための修業方法などについては、伝統的ヨーガの技法を紹介するくらいで、具体性、説得力が感じられない。
その成長プロセスを説ける人物として、やっぱり和尚、ということに戻ってしまっている。
 その細かい精神行程のガイドとしては、以前の日記にも書いた、トゥルンパの方が自分にはなじみやすい。
どちらにしろ、この二人の本を読むと、実は仏教というのはすごい教えなのだ、ということがわかってくる。

和尚の本は、全部の1割程度しか翻訳されていないし、それも内容に偏りがある。
霊体や輪廻、過去生について書かれた本もあるが、まだ翻訳されていない。これも翻訳してみたいが、かなり分厚い本だ。

 結局、今になって、和尚を再認識し始めている。
2年前のインド・カジュラホに行った時も、インド人の新しい和尚の弟子たちが来ていたのが不思議な感じだった。
和尚のブックフェアーもあったし、最近はインド人も和尚を受け入れているようだ。

結局、私は和尚についてほとんど知らなかったのだろう。たぶんこれからも理解することは不可能だろうけれど。





 3月28日

3月26日、飛行機で大阪より鹿児島へ出発。
南西大吉の方位取りで、当初は交通費を安くあげるため、高速バスを検討したが、
西方位が大凶で、バスだと山陽道を走るため西方向へ行くので、大凶の西方位を避けるため飛行機を選択。

ところが、飛行機の飛んだルートも、瀬戸内海上を西に飛び、国東半島上空で南に進路を変える、というものだった。
なんでこんなコースを飛ぶんだ?飛行機を選んだ意味がないじゃんか!

宿泊地も安さで選んでしまったからか、部屋のとなりの物音は響き渡り、とにかく騒がしい。
布団はせんべい同様で硬すぎる、ほとんど眠れない。
タオルなどのアメニティも無し、なんだかフェリーの2等客室に泊まった感じ、ケチりすぎたのが良くなかったか・・・・

開聞地方は20数年前に、とある霊能者との集団生活を、途切れ途切れに約3ヶ月ほど暮らしたところだが、
当然、月日は流れて、今や、当時の面影は無し。
それを承知で、自分の中での、回想と、確認のために・・・・ 

すべては、ここから始まったのだから・・・

枚聞神社   
その当時から「ここには神様はいない」と言われていたが、やはり、何も感じられなかった。
私の霊感が鈍いからかもしれないが・・・

神様の居られる場所は、開聞岳の登山道の途中に、昔、友人たちと登ったとき、それらしき感じられる所を見つけた思い出がある。
今回は登山せず。それでもやはり開聞岳からは、すごく優しいエネルギーが溢れていた。

確かにあの当時、20数年前でさえ、その地を去ることにした理由も、もうここには霊的パワーはない、というふうに見切ったからだった。
だから、もう終わってはいる。
それをもう一度、再確認したいために、ここに来たわけで、おかげで、自分の中で、ひとつ、吹っ切れることができた。

レンタルサイクルで回ったため 龍神の雲が現われた鰻池に行くことは体力的にきつかったので無理だったが、
たぶん行けたとしても、同じくもう何も感じられないだろうし、もうこれで十分、という、納得感は得られた。

今、自宅に帰っても、しばらく両足が筋肉疲労でよれよれの状態でありまする・・・





 3月30日

自分の過去の検証が起こっている。

開聞旅行や、和尚についての再かかわりも、その一つかもしれない。
過去に起こった出来事ひとつひとつが思い出され、浮き彫りにされ、その意味を知ることで、こだわりが消えていく。
そうすることで、過去に囚われなくなっていく。

自分の行動パターン、癖を観察する。それは過去の影響、親の影響、前世の影響を受けたもの。それについて、価値判断をせずに、ただ見る。
自分の過去を、他人事のように見ることによって、それは、夢物語であった、と捉えることで、過去から解放される。
そのために、瞑想が役に立つ。

瞑想のやり方は、ただ、呼吸を意識するだけ。時間は20分から40分ほど。
集中したり、コントロールすることはない。これはヴィパッサナといって、仏陀が見出した瞑想といわれている。
理屈は単純だが、けっこう難しい。
人間は、単純なことを長く続けることが苦手だ。すぐに呼吸を忘れて、妄想に囚われてしまう。
いろんな想念が起こってくる。
何度も落ち込んだり、傷ついたり、怒りがこみ上げてきたりするかもしれない。感情がかき乱されるかもしれない。
ポイントは、その感情に巻き込まれないこと。
他人事のように、ただ見ること。ダメだとか、悪いだとか、どんな評価もしないこと。
特別なことが起こる、という期待もしない。

ただ、起こるにまかせ、放っておくと自然と落ち着いてくるようになる。
時間がかかる。すぐに効果が表われたり、すぐに良くなったりするものではない。
変化は少しずつ起こる。それが確実な方法だ。急激な変化は、またすぐに元に戻る可能性が大きい。

今、変革のエネルギーが世界に働いている。それは、個人に対しても働いている。
だから、今は、自分を見つめ、瞑想し、変革させるには、絶好のチャンスだといえる。







   2011年 3月
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