2月1日

前回の日記を受けて、邪馬台国・卑弥呼について興味が移ったので・・・

 奈良の桜井市にある箸墓古墳が卑弥呼の墓である(?)という説が出てきて、邪馬台国が奈良にあったという畿内説が有力になってきているが、
それだと、「魏志倭人伝」に書かれてある邪馬台国までの道のりの記述が説明つかなくなる。

 これを学者の方々は自説を正当化するためにいろいろと拡大解釈されるが、これが困ったものだ。

代表的なのが、邪馬台国 = ヤマタイコク = ヤマト = 大和 とするもの。
そもそも魏志倭人伝には邪馬台国ではなく邪馬壱国と書かれてあるから、そのまま読めば ヤマイコク になる。

 ただ、これが当時の日本人(倭人)の発音していた言葉を音写したものと見ると、本当は何と呼ばれていたかは謎になる。
卑弥呼についても、ヒミコ は漢文の日本語読みだから、韓国人にこれを読ませると、ペメハ となるそうだ。・・・(歴史家の井沢氏による)

 個人的には、九州、近畿の両方に、それなりの王国があったのだろうと思う。

「卑弥呼は鬼道を使い、人々を惑わす」とあることから、卑弥呼が巫女、霊媒、霊能者であった可能性は高い。

仮に、箸墓古墳が卑弥呼のものでないとしても、箸墓は三輪山のふもとにあり、三輪山は古代より御神体として祭られ、そのあたりで霊的交信が行なわれた記録もある。

つまり、そこにはやはり巫女的な人物が居た可能性がある。

 三輪山をはさんで箸墓の反対側には 出雲 という地名もある。
三輪山を御神体として祭る大神神社は、古代の日本の信仰形態を残すものという話もある。私はこの近くにある狭井神社が好きで、ここからこの三輪山に入山できる。

 邪馬台国の場所がどこであれ、この三輪山周辺は霊的に見ても非常に興味深い場所だと思う。






 2月2日

霊界とコンタクトを取る人 = 霊媒 = 霊能者 の、方法にはいくつかの種類があるようだが、
共通していることは、自分の意志でそれができるのではなく、守護霊の働きかけでそれができる、というものらしい。


★代表的なのが、霊視
具体的なイメージが見える、というもの
ただ、そのイメージは象徴として現われるので、それが何を意味しているのか、どう解釈するかは、その霊能者自身の判断に委ねられる。


★霊聴....何者かの声が聞こえるというもの


★幽体離脱.....本人の霊が肉体を離れて霊界に赴き、その様子を伝えるもの  
スウェーデンボルグなどがその代表、他にスカルソープの霊界紀行もある


★トランス状態でのリーディング......本人が睡眠状態になって語るもの   
一番有名なのがエドガー・ケイシー 出口王仁三郎の霊界物語もこれらしい。


★霊媒を使って高級霊が語るもの
上のリーデングにも似ているが、大きな特徴は話し方、語り口調ががらりと変わる。
シルバー・バーチの霊訓がこれに当たる。
この霊媒であるモーリス・バーバネルは生まれる前から霊媒としての使命を持ち、そのための準備を受けている。
語っているのが高級霊ではないが、浅野和三郎の「小桜姫物語」もこれになる。


★自動書記
その人の手が本人の意志に関係なく勝手に動いて筆記をするもの その筆記をさせているのはその人に憑いている霊なのだが、特徴はその書くスピードがものすごく速く、しかも文章がまったく乱れたりしないこと。
代表的なもので、モーゼスの「霊訓」、スカルソープの「ベールの彼方の生活」、高橋信次など。

☆他の自動書記として、人間を介せず、ペンが勝手に動いて筆記するというものもある。



こんな大そうなものでなくても、ちょっとしたインスピレーション、直感や、胸騒ぎ、なども霊界からのメッセージと見られる。
ここで、いわゆる巫女と呼ばれる人がどんな方法で霊界とコンタクトをとっているのかは私としてははっきりわからない。
たぶん、霊視と守護霊からのメッセージのような言葉が複合的に伝えられるのだろうと想像しているが・・・。





 2月3日

釈尊が入滅してからしばらくの間は仏像などは作られなかった。
それはまだ仏教の教えが生きていたからだろう。
だが、次第に釈尊やその弟子たち、そしてそれにまつわる仏たち ・・・菩薩、如来などを信仰するようになっていく。

それは釈尊が望んだ教えだったのだろうか?

 釈尊が残した最後の言葉に、「たとえどんな偉い人が言った言葉であっても、鵜呑みにしてはいけない。自分自身を拠り所として生きよ」というものがあったと思う。
しかし、やはり人は形に囚われていく。これは何度も繰り返される。

 いろんな宗教を調べてみればまさに大同小異で、説いていることはそんなに変わらない。
違うのは神様の名前、教祖の人物くらいのもの。しかしそれが違うために論争が起こる。

イスラム教は偶像崇拝を否定しているが、そのために多くの仏教遺跡・仏像を破壊し続けている。これも形にこだわっていることの表れだ。

 昔、私が所属していたインド人のグル(導師)による瞑想コミュニティーも、世界中のあらゆる心理セラピー・テクニックを取り入れていて、いわばグローバルな世界をつくっていたのだが、
やはりその弟子たちはその導師そのものに関心を寄せていた。

その導師も「私に目を向けるのではなく、真理に目を向けなさい」と言っているにもかかわらず・・・

 そうして、自分のためでなく、その導師のために生きるようになる。その導師のために自分の人生を犠牲にし始めていく。

よくある宗教団体の悪しきパターンがここでも見られていった。

 チャネリングで有名なバシャールも、言っている内容はそれほど目新しいことではないものだが、それが宇宙人からのメッセージだ、ということで注目されている。それを証明するものは何もないのだが、これも形に囚われているひとつのケースだろう。

 「私は神を見た。イエスと会った」なんてことを言うだけで教祖になれる。

宗教の教祖がよく言う、イエス・キリストの霊が舞い降りたとか、仏陀が守護霊にいるとか、それが本当かどうかはともかく、そういうのを引き合いに出すこと自体、これも同じパターンに見える。






 2月4日

単純に言って、霊とは肉体を持たない人間のこと。

霊体になったことで、いままで理解できなかったことが解明されたりはするが、その霊自身の質は変わらない。
霊によっては輪廻転生を否定する者もいる。霊だからといって、すべてを知っているわけではない。

霊体になったからといって、別に何か偉くなったわけでもない。

日本での霊の通信を見てみると、日本を世界の中心であるかような見方をしているのがあるが、これも自分の国をひいき目に見たいという気持ちの表れ、とも取れる。

スピリチュアリズムの霊界通信はほとんどイギリスあたりのものが多いが、それらはやはりキリスト教の色合いが強く感じられる。

生きている人間に比べれは、霊の持つその視野、世界観は広がるが、それでもその霊がこの地上で経験し学んできたことが基準になる。
霊の器量は地上で学んできたことで決まる、とも言える。

霊界からの通信にはいろんなものがあるが、だからそのひとつだけを鵜呑みにすることには問題があると思う。
私たちには、その霊の程度(霊格)を判断する基準がわからないからだ。

幅広く見ていくことが大事だと思う。


★完全アセンション・マニュアル
タイトルが気になったので、この本をAmazonで見てみた。その内容は・・・
キリスト、主マイトレーヤ、仏陀、サナート・クマラ、ジュワル・クール、ヴァイワマス、ババジ、パラマハンサ・ヨガナンダ、サイババ、、、 大勢のマスターたちを取り上げ、アセンションの真相を究明する。

おもな内容は・・・ 創造の物語、 モナド、魂、人格、 地球レベルの七つのイニシエーション、 アセンションのテクニック
アンタカラナの構築、 死と死後体験、バルドの科学、 転生と転生のはざま、 秘教的心理学と十二光線
・・・と書いてある。

中身は読んでいないがこれを見ただけでだいたいの内容は察知できた。
というのも、ほとんど私の知っていることばかりだから・・・  

この項目を見れば、この本の著者が神智学、トランスヒマラヤ密教をベースにしていることがわかる。
アセンションなんて目新しい言葉を使っているけれど、その内容は非常に伝統的な神秘学を基礎にしている。

何もそこに新しいものはない。
これまで普通に神秘学を学んできた者にとっては、きわめて当たり前のことばかりの内容だ。
表現方法を変えてるだけ。





 2月5日

終末論はもともとゾロアスター教から来ている。

ゾロアスター教はペルシャで生まれた宗教で、教祖ゾロアスターはツァラトゥストラとも呼ばれる。
その終末論は、世界が崩壊し、救世主が現われ、最後の審判が行なわれて、善人は救われ悪人は見捨てられるというありきたりのもので、それがユダヤ教に伝わり、黙示録へと繋がっていく。

ゾロアスター教はベルシャの土着信仰ミトラ教を取り入れているが、このミトラが仏教の弥勒(ミロク)の原型といわれる。

弥勒も仏教における救世主的性格を持っていて、56億7千万年後に我々を救済するらしいが、それだと今の我々にとってはどーでもいい話になる。

ノストラダムスはカバラ信仰者と言われているが、カバラはユダヤ教の密教的部分であり、ユダヤ教はキリスト教やイスラム教の元でもあれば、西洋人の思想の底流にはユダヤ教の教えが染み付いていると考えられる。
つまり終末論は西洋人の心の中にいつも巣食っているといえるだろう。それが現代ではアセンションという考えで、また表面化してきているといえる。

これはやはりアトランティス崩壊の記憶が深いところに残っているからだろう。
文明の元がアトランティスから来ている、という説を受け入れれば、そういうふうに言える。

2012年アセンションの元はマヤから来ているし、またネイティブ・アメリカンのホピ族にも終末思想がある。

秘教的知識からはどちらの民族もアトランティスの末裔であるといわれている。





 2月9日

西洋は外向的、世界をどう見るか、どう変えるか、に視点を置く。
そこから錬金術や科学が発達してきた。
宗教では神と人間との関係が焦点になる。神を信じる者は善、信じない者は悪、という単純な公式になる。

東洋は内向的、自分をどう見るか、どう変えるか、に視点を置く。
そこから内観、瞑想が生まれた。
仏教が神について説かないのは、神を否定しているからではなく、そもそも視点が違うので、神という概念を必要としなかったからだ。

心霊科学は西洋から生まれた。

スピリチュアリズムであれ、神智学であれ、みごとに霊の世界を体系づけている。
しかし、そこで、ではどう生きたらいいのか、という命題に対しては、善いことをしろ、利己性を克服しろというありきたりのもので、あまり深くない。

その点については、東洋・仏教の方がはるかに深く探求している。
人間分析においても、西洋心理学よりかは仏教の方が深い。

ただし、ここでいう仏教とはあくまでインドで発生した原始仏教の真髄を伝えているもので、日本の仏教に対しては、あまりそれは感じられない。

これからは、西洋と東洋との融合が必要になると思う。
その意味で、日本は非常に重要な場であるように思える。
一見、宗教心があまり無いように見えるが、よく言えば、特定の宗教形態に囚われていないともいえる。
柔軟とも言える。悪く言えば軽薄だが・・・
だから、東洋と西洋とのバランスを取るには最も可能性の高い国だと思っている。

心霊知識から、この物質界と霊界との関係を知り、仏教から、自分というものを知る、この両方のアプローチが必要だろう。





 2月10日

先ほどH.I.S.より連絡があって、出発予定日の3月20日のエジプト行きの便はフライト中止となりました。

エジプトの非常事態による渡航中止ということで航空代金は全額返金されることになり、その面ではよかったけど、意外と早く通達が来たな、という印象。3月31日までダメらしい。
当然、こんな情勢の時に無理して行く必要もないのだが、唯一キャンセル代がどうなるのか気がかりだったので、この通達が来る前にキャンセルしていたら、キャンセル代金が発生してしまうので、しばらく様子を見ていた。

正直、この間、自分の中でエジプトに行きたいという気持ちはまったく盛り上がらなかった。
非常に冷めていた。エジプト南北をつなぐ鉄道がデモ隊に占拠された、というニュースを知って、ますますやばくなってきたな、と思っていたところだったし、ひとまずは、自分にとって良い方向に動いていることは感じられる。





 2月12日

ユダヤについて調べてみたら・・・よく日本とユダヤがよく似ている、という指摘があるが、他の国もユダヤとの共通点が多いみたいだから、特に日本だけが、ということではないみたい。

ユダヤ民族の歴史はまったく迫害・受難の歴史だ。
それもイエス・キリストを殺した民族、という理由で・・・そのイエスもユダヤ人だったのだが。

そのユダヤ人大虐殺をしたヒトラーの背後には仏教系の霊的秘教グループが働いていたというらしい。
もともとは世界救済のためにヒトラーを使うつもりだったらしいが、どうもその働きかけを誤ったらしい。
ナチスのシンボルであるカギ十字は仏教寺院の卍を裏返したものだ。
ようするに霊団といってもいろいろあって失敗することもあるらしい。


話しを戻すと・・・ユダヤ教に影響を与えたというゾロアスター教があるが、これは世界中の宗教に影響を与えているらしい。
で、シュタイナーによると・・・人間の霊的歴史をいくつかに分けていて


(1) インド文化期 ・・・物質界よりも霊界にばかり関心がむけられていた時代 
ヴェーダ、ウパニシャドなどの聖典はこの時代の霊的知識のほんの表面的、断片的なものでしかないらしい。

(2) ペルシア文化期 ・・・ゾロアスター教が生まれた時代で、逆に物質界へ関心が強められた。

その後、(3)エジプト期 (4)ギリシア期 を経て


現在は(5)第五アトランティス文化期と呼ばれていて、AD1413年から始まり、AD3572年で次の文化期に移るらしい。
(なぜ1413年というふうに一桁台まで決められるのかは私にもわからない)
だいたいひとつの文化期の長さは2000年くらい。

この、それぞれの文化期の変わり目が、いわゆるアセンションと言ってもいい、意識の変革が起きた時期であって、これでいくと、この次の変革の時は約1560年後ということになる。

あくまでシュタイナーの説によれば、だが・・・
 





ゾロアスターには二人の弟子がいた。ひとりはヘルメスで、もうひとりはモーセ。ゾロアスターはこのふたりに自分の分霊を移す。モーセから旧約聖書、そしてユダヤ教へと行く。

 ユダヤ教は救世主(メシア)を求める宗教で、数々の預言者が輩出しているが、この預言とは神の言葉を預かる、という意味なので、神とは高級霊という意味からも預言者とは霊能者であった。

その救世主のひとりがイエスだったが、シュタイナーによるとイエスは二人いた。
ひとりはナザレに住み、もうひとりはベツレヘムに住み、どちらの両親も父はヨセフ、母はマリアという名だった。

 このベツレヘムのイエスはゾロアスターの生まれ変わりだという。
このイエスがエジプトへ行ったことでゾロアスターはヘルメスとモーセに移した自分の分霊を取り戻す。
その後、ゾロアスターはベツレヘムのイエスからナザレのイエスに移ったため、ベツレヘムのイエスは12歳で死んでしまう。

 ナザレのイエスにゾロアスターの霊が移ると同じくして仏陀釈尊の霊もイエスに移る。
つまりこの時点で、イエスの守護霊はゾロアスターと仏陀釈尊ということになる。

 そしてイエスが30歳になったとき、キリスト(神)がイエスに降りる。
このキリスト(神)は、シナイ山でモーセに十戒を授けた神と同じ存在という。

 イエスは当時の権威化し腐敗していたユダヤ教に反対して民衆のために教えを説いたので、ユダヤ教の権力者の反感を買って33歳で十字架に架けられるため、イエスの布教活動期間はわずか3年ほどだった。

 現在、このイエス・キリストは、人間の霊的成長を促す霊団の最高責任者として人間界に働きかけているという。
シルバーバーチも霊界に戻っては、このキリストから指針を受けていたという。

 アセンションの思想の元ともいえるトランス・ヒマラヤ密教のジュアル・クール大師(チベット人)はイエス・キリストの肉体的再生を現代あたりにあると予言しているが、シュタイナーはそれを否定している。

 私から見たら、いまさらイエス・キリストなる人が現われたとしても、誰も聞く耳を持たないだろうし、相手にしないだろうと思う。
これだけ擬似宗教、擬似教祖が乱立している現代では、なにが真実かわからない状況だから・・・

真実は自分の心の声にあるのだから、外的な教祖・救世主的存在に頼ることは非常に危険だと思う。





 2月13日

図書館に行って三輪山についての本を調べてみたが、やはり失望した。
古事記以前の古い信仰を残している三輪山については謎だらけで、人造ピラミッド説まであるしまつ。

霊的なことには無知で、ただ学術的に書かれた本は所詮仮説にすぎず、無味乾燥で何も得るものはない。
かといって、日本を世界の中心だと考える神道系の神霊関係書は胡散臭くて好きではない。

三輪山とその周辺は、やはり古代の霊場 スピリチュアル・スポットだと思っている。
その麓にある箸墓古墳に葬られている倭迹迹日百襲姫命は、鳥のようにいちはやく神と交霊した霊魂知りびとだったという。

これに、すごく興味がある。

三輪山の祭神は大物主神で、出雲大社の神と同じという説もあり、また蛇神であるから、龍神にもつながる。

ただ、私はあまり神々の名前にこだわるのも好きではない。

所詮、人間が命名し作り上げたものもあるだろうし、当時の豪族・権力者を神にすりかえたにすぎないものもあるだろう。

本当はどうだったのだろうか、というのがすごく知りたいのだが、結局自分で感じるままに想像するしかないだろう・・・か?






 2月14日

今日は、太古の昔、三輪山の麓で交霊を行なったといわれている倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ) の、その交霊の場所といわれている茅原という所に行ってみた。

そこには茅原大墓古墳と呼ばれる前方後円墳があり、箸墓古墳についで大きいもので、ちょうど発掘調査をしていた。
古墳は樹木が刈られて登ることができ、その頂上から三輪山が展望できる。
なんとなく、この場所で、三輪山を拝みつつ祭礼が行なわれていたのでは、と、ひとり感慨にふけった。

ここより少し南へ細い道を行くと、その倭迹迹日百襲姫を祀った神社がある。

名前が「神御前神社」という。「神御前」・・・・

すごい名前だ。すごく小さな神社だが、その祠の向こうに三輪山を拝める。
さに、神の御前、となる。これが住宅地の中に埋もれるようにひっそりと佇んでいる。

どうもこの倭迹迹日百襲姫という人物が気になる・・・

昼前に家に帰ったが、家に着いた頃から天気がくずれ、午後からは雪になった。なんとも不思議な一日だった。





 2月15日

私にとっては、いろんな本で学んだ結果、前世があることは疑いのないことなのだが・・・

前世を知りたい、という気持ちに ??? を感じるところがある。前世に何を期待、あるいは何を求めているのだろう?
ロマンチックなものを求めすぎていないだろうか・・・

前世で生きた結果が、今のその人の姿なのです。ということは前世も、今の自分とそんなに変わらない、ということだ。
特別な自分を期待するのは無理だろう。

人生は幸と不幸との繰り返しです。悪いこと、嫌なこと、恥ずかしかったことなどは忘れたいのが人情だ。
前世を知るということは、そんな嫌なことも全部思い出すということになる。

いいことばかり、美しいことばかりではない。

そういった、ネガティブな面も受け入れる用意がある人にとっては、前世を知ることは有意義だろう。

この世のことだけでも十分なのに、それに上乗せして、前世のややこしい問題が余計にからんでくることなもなりかねない。

めんどくさく、大変になる。
人間関係もややこしくなる。
今の関係が前世ではどうだったか、微妙な世界です。よい関係ばかりとはかぎらない。

過去のことを知らないで生きたほうが楽な場合もある。
前世を知らない、ということは、ある意味ありがたいことでもある。

また、自分が見た(思い出した)前世が、本当にそうなのか、単なる自分の願望が創った妄想にすぎないのか、これも微妙だ。
その真偽を見分ける術を普通の人は持たないからだ。

今の自分の人生を見つめれば、だいたい自分の前世がどうであったかは察しがつくと思う。






地元、三輪山について好き勝手に調べていて、まず箸墓古墳の倭迹迹日百襲姫 ( やまとととびももそひめ ) が巫女 = 霊能者であることに興味が惹かれたが、この人は日本書紀には載っているが古事記には載っていない。

それより、両方に載っている人物で、おおたたねこ、という人がいる。この人も巫女だ。

日本書紀では「大田田根子」、古事記では「意富多多泥古」と書く。
崇神天皇が神事のためにわざわざ探した人物で、河内の美努村 (現在の大阪・八尾市) に住んでいたという。

また、私の家紋が組合角で八方位を表わし、これが八幡信仰にも繋がっているらしいので、八幡神を調べていくと大分の宇佐神宮へたどり着く。

八幡神も謎とされているらしいが、この宇佐に八幡信仰を持ち込んだのが大神比義という人物で、これが三輪山のシャーマン=霊能者=であったという。

いろんなものが繋がりあっているのがわかってくると、とてもおもしろい。





 2月18日

なんとなく 今まで続いてきたことが、終わり始めてはいるが
次に起こることは、まだ、見えていない という感じがしている。 

個人的にも 世界的にも

個人的には 空虚 でも、ネガティヴではない ただ、静か・・・・

2年くらい前から、欲望や願望、期待などが薄れていった。
今の自分に何が起こっているのか見極めるのは難しい。

自分のことが、わかっているようで、よくわからない。

でも それは起こっている。 起こっていることは、起こるがままにまかせるしかない。

世間的に見たら、批判されるだろう。 「夢を持て、ウツ病だ、元気を出せ」、という具合に・・・
そうだろうか?ちょっと違うような気がする。

仏教では、世間に囚われることを戒め、無欲の境地を説いている。

ただ、今の自分の状態が 仏教的な境地と同じと思うことはおこがましい。
そんな、大それたものでもないだろう。

しかし そうなってきていることは、現実だ。
外側の旅は、終わり、みたい。魅力が無くなってきている。

何か 変わりつつあることだけは、感じる。
たぶん 今年いっぱいは こんな状態が続くかもしれない。

個人的にも 世界的にも 古いものは終わりはじめている

でも 新しいものは、まだ見えていない

空白と、静けさだけ





 2月22日

ようやく何かが吹っ切れたような、平静で穏やかな心境になれた。
去年の暮れから何故か精神的に不安定な、チクチクした状態が続いていたが、どうやら落ち着いたようだ。

こんな平和な状態は、いままでにはない、初めての状況だ。興奮的な幸福感はそれまでにも何度か味わってはきたが、今は、ただ、静か、穏やか、
何の欲もなく、何のストレスもない。

誰とも会わない、一日中、ただひとり、

たぶん、部屋の色調が木目色 (茶色) を中心にしているため、その色の影響で落ち着きすぎてしまっているのかもしれない。

いままで一番幸福感を味わったのは、リバーシングというセラピーを受けたとき、全身が柔らかなエネルギーにつつまれて、何の理由もなく、ただただ喜びが湧き上がってきた。
それが本来の自分なのだ、という実感があった。
そのときは、自分が産まれてきたときの状況を再体験もできた。誕生と死とは同じ現象だ、ということがわかった。

その数年後、一番の地獄を味わう。ある女より精神的苦痛を受け、憎しみの極限を知る。
生まれて初めて、人を殺したいと思った。そのトラウマは20年以上続いた。

その体験によって、犯罪被害者の気持ちがよくわかるようになった。

天国と地獄、この両極端を知ったことで、今、その中庸に立てていられるような気がしている。
夢や憧れ、執着などはほとんど消えてしまった。

ただ、今、ここに在るだけ。

その状況に、ようやく慣れるようになってきた。
変化はゆっくりと、確実に起こっているように感じられる。






 2月24日

 石上神宮
奈良・天理市にある日本最古の神社といわれていて、昔からスピリチュアル・パワーの強い神社といわれている。
奈良に移り住んでからよく参りに行くが、確かにピリッとした強い霊力を感じる神社だ。

祭神は神武天皇の天剣にやどる霊とされていて、物部氏の武器庫としても使われていて、多くの神器が保管されていたらしい。

ただ、武器にやどる霊、といわれても、私自身はどうもピンとこない。
アマテラスやスサノオのような神であれば、なんとなくイメージしやすいものだが、武器の神様といわれてもどうも・・・という感じがする。

それでもそこでは確かに強いパワーは感じられる。やはり、何かが存在していることは確かだと思われる。

霊のことを勉強しておきなから、実際のところ霊のことはよくわからない、というのが正直な思いだ。すべてのものに霊が存在しているわけで、小さな石ころから、地球、太陽系、銀河系にいたるまで、それぞれに対応した霊体があるという。

結局、霊とは人間の五感を超えた存在であるようで、それを人間の限定された感覚で捉えようとしても、所詮、霊のわずかな一面を見ることができるにすぎないのだろう。

つまり、人間には霊の全てを知ることは不可能だと言われている。認識能力が小さいからだ。

だから、〇〇神という名称も、人間がある特定の霊に対して名付けたレッテルのようなものとも言える。
同じ霊をそれぞれの人がそれぞれの見方で名付けたものか、それともやはりそれ特有の霊がいるのか、本当のところはよくわからない。

しかしそれを短絡して、霊の実体を否定することにはならない。
現実的に、感じられるからだ。つまり、そこには確かに何かが存在している、と思える。

だから個人的には、あまり霊や神の名称にこだわってもしかたがない様な気がする。
実体はよくわからないのだから、その神の名称がその人のイメージしやすいものであれば、それはそれでいいのだろう。

石上神宮の神様が武器の霊であるということに囚われず、その霊力の質、パワーを感じられれば、それだけでいいのかもしれない。





 2月26日

 龍神
奈良・天理市の石上神宮より奥地へ行くと桃尾の滝があり、ここには三輪白龍大神が祀られている。
この滝よりさらに奥に入ると竜福寺という名の寺がある。

桃尾の滝の真南には龍王山があり、そこには龍王城跡が残っている。
山の辺の道の途中には龍神神社がある。

寺院では奈良市内で雪柳の花がみごとな海龍王寺という寺がある。斑鳩の龍田神社、三郷の龍田大社なども。
三輪山に祀られているのは大物主神だが、もともとの古代信仰では蛇の神であり、これも龍神とみられている。

宇陀市室生区(旧室生村)は室生寺で有名だが、そこより少し奥へ行けば龍穴神社があり、
ここもあまり訪れる人はなく、それだけに強い霊気が感じられる。
ここよりさらに山の中に入るとこの神社の奥の院とも言える龍穴と龍の滝がある。

室生区の三重県に近いあたりには龍口と呼ばれる地名があり、その山中には龍口不動滝がある。
室生ダムの近くには竜鎮滝という小さな滝もある。

梅林で有名な月ヶ瀬村には龍王の滝。吉野には竜門岳という山があり、そこにも竜門の名のつく滝が二つある。
奈良から外れて高野山の南には龍神村というところもある。

まだまだ他にもあると思うが、とりあえず地元で龍の名の付くところを探してみた。
やはり、古代の信仰というか、土着の信仰では龍神を祀るところが多いように思える









   2011年 2月
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