1月2日

私がよく参拝し、初詣にも行く石上神宮は奈良の天理市にある。天理市は天理教信者によって作られた町だか、信者たちはこの神社に参拝するのだろうか、と考えると、やはり参拝はしないのが当たり前だろう。
となると、参拝する人たちは天理教の信者ではない人たちなのだろう。

石上神宮は古事記にも出てくる由緒ある日本最古の神社なのだが、参拝者が少ないのは天理教の信者が多く住む天理市にあるからなのだろうか。
私の住む町には最近大きな創〇学会の会館ができた。そして元旦には多くの学会員が集まってきて新年を祝っていた。
彼らは神社には参拝はしないのだろうか。

仏教徒を自認する人、僧侶たちは、やはり初詣も寺でするのだろう。いや、そもそも初詣という観念がないのかもしれない。
ということは、神社に参拝する人というのは、神道に関わっている人を除けば、特定の宗派にこだわっていない人、あまり宗教に関心がない人たちなのだろうか。

それとも、何かの宗教に属しているとはいえ、神社には参拝するのだろうか。
素朴な疑問・・・
今年もアイカワラズこんなことを考えている。





 1月6日

いままで読んできた精神世界の本の中で、最も影響を受けたのが、チョギャム・トゥルンパの「タントラへの道」という本。
1981年に出版されだが、現在では入手不可能。Amazonで唯一見つけたが30000円という高値がついている。定価は1600円。
ネットで検索してもこの本を絶賛する人、復刊を望む人は多い。

一時、精神世界に関わることがすごく嫌になった時期があり、この本も古本屋に売ったことがあった。しかし、なぜかすぐに買い戻した。
トゥルンパはチベット人で「タントラ」もチベット仏教の教義だが、それにとらわれず、精神的な道を求める人がたどる心理的側面、過ち、瞑想・仏教について実に的確に述べている。1970年代のアメリカ人に対しての講話だから仏教を知らない人にもわかりやすい。

その本の全文を自分のHPに書き写す作業をしている。
とりあえず、要点・抜粋文章は写し終えた。その作業で改めて読み返しているが、何度読んでも心にグサッとくる文ばかりだ。
この本は、スピリチュアリズムの一連の霊訓書と並んで、私にとってのバイブルだ。






 1月7日

私の今年の運勢は後半から大凶になるらしい。しかし、どうもこの言葉が好きじゃない。
大凶だとか、大殺界だとか、「これから悪いことが起こるぞ!」という脅しに聞こえる。霊感商法が利用する手口と同じだ。

そもそも凶って何だ?
先に書いたシルバー・バーチの言葉で好きなのが、人間は進歩と退歩を繰り返す、ということ。退歩も必要だと思う。
振り返って反省する時、一日で言えば夜、季節でいえば冬、野球でいえばシーズンオフ
いわば、エネルギー補給の時期じゃないの・・・?外に出ずに、内にこもる時、そんなときも必要でしょう。
それが何で凶なんだ?運勢を見ると、吉か凶でしか見ない。良いか悪いか、単純な価値判断・・・
言葉から受けるイメージが悪い。大凶って、実はすごく大切な時期なのでは、とも思える。





 1月12日

やたらアセンションという言葉を聞く。詳しいことは知らないが、どうも人間の意識レベルが高い次元へシフトチェンジするというもので、それが2012年あたりに地球規模で起こるというような、まあ、抽象的すぎてよくわからない。

ただ、言えることは、霊的に見てそのような急激な進化というのはありえない。
成長、進化というのはゆっくり進むものである。仮に、急激な進化がありえたとすると、同じく急激に退化する可能性もある。
なぜなら進化のための蓄積がないからである。

それはいわば上っ面の、表面的な変化にすぎない。そんな簡単な話ではないのである。簡単に変わるということは、簡単に元に戻ることにもなる。
このたぐいの話は昔からよくある。

1970年代のターニング・ポイント、ニューサイエンスの台頭なども似たものといえる。
この時代は精神世界の動きが盛んで、やたらインドのグル(導師・聖者)たちが注目を集め始めた。
もともとはヒッピーたちのドラッグ幻覚体験から発していたのだが・・・

そしてあのノストラダムスの1999年終末説。で、次は2012年ですか、という感じ・・・・

よく懲りないものだと感心する。

終末論に救世主待望説、今はそれが宇宙人になっているそうな・・・宇宙人を神様だと信じている人もいるが・・・
選民意識のエゴが見える。自分は救われるのだ、という変な自信・・・

そもそも 救われる、ってどういうことだ?

現代のような複雑な世界では、単にひとりの救世主が現われたからといって良くなるような単純な世界ではもうない。
時代が違うのだ。

しかし、このアセンションという発想は、結局ヨハネ黙示録にあるような最後の審判のような、キリスト教的発想からきているように見える。
私にとってはまったく現実味の感じられない、空論に思える。信じている人は好きにしてもらってけっこうだが・・・
「悔い改めよ、裁きの日は近い」この悪しきキリスト教の教義と何ら変わりがない。
この地球が破滅するということはありえない。

これはシルバー・バーチもはっきり言っている。なぜなら地球は霊的な意味でも必要な星だからだ。
たとえレベルは低くても、修行の場として必要な星なのだ。

そして霊的進化はあくまで個人の努力によるもので、しかもそれはゆっくり進む。植物が地面に根を張るように、しっかりとした土台を築いて成長していくものだ。そうでなければその成長には強さがない。

だから、何らかの外的作用によって一足飛びに次の段階へ成長するということはありえない。
もしあったとしたら、その成長は非常に弱く脆いものであり、なによりその外的作用に依存していることになる。

でも、それを信じている人たちは、2012年のカウントダウンが近づいてきたら何をするというのだろう?
実際、何が起こるのか、見ものではあるが・・・






 1月14日

死とは、単に霊が肉体から離れるだけのこと。

それは霊にとっては肉体からの解放だから、死は不幸ではない。死体処理は、霊の肉体への執着を早く断ち切るためにも火葬がベストと言える。
土葬はあまりよくない。ということはミイラ化することは霊にとってはあまりよくないことと言える。

四十九日とは、死体が土に変えるまでの期間だとも言われる。死者の霊はその間自分の死体の変化を見る。

葬式にはたいてい死者の霊も出席している。死者の霊に自分が死んだということを確認させるためにも葬式は必要だそうだ。

心霊知識伝達の先駆者でもある丹波哲郎の葬式でも、美輪明宏が霊視で丹波哲郎の霊が自分の棺おけに腰掛けて自分の葬式を眺めているのが見えたそうだ。

供養の形式にこだわるのは意味がない。国や宗教によって死者への扱いかたは様々だ。日本内でも宗派によって儀式はいろいろだが、それはただ地上的な問題だ。

死者へのお供えも、例えばお茶やご飯などは、死んで間もない霊には、まだ物質へのこだわりが残っているのでかまわないが、霊は早く物質への執着を断ち切って霊界へ進まなければならないので、いつまでも食物を供えることは霊にとってはよくない。逆に物質界に引き止めてしまうことになる。

死者を悲しむことも、ほどほどにして、遺族が悲しみすぎると、その念が死者の霊を地上界に足止めにしてしまう。
死者の霊が無事に霊界で過ごせるように祈ることが一番の供養となる。
死者のために心霊知識の本を読み聞かせることは霊にとってとてもいいらしい。チベットの死者の書などはそのための本なのだが、あれはチベット人のためのものであって、日本人には適用しにくい。

孤独で死んだ人の方が、この世に対するしがらみが少ない分、霊界での進行は早いらしい。
死刑は霊にとっては最悪。霊界にとっても、世間に対して怨みを持ったまま無理やり生命を断ち切られた霊がやってくるのはこまった問題だそうだ。

幼くして死んだ霊は、霊界の保育所のような施設で保護・教育される。母性愛に富んだ霊たちが面倒を見てくれる。
医学の進歩による延命処置、植物人間、これらは霊にとっては、死ぬこともできず、生きることもできない、宙ぶらりんの痛ましい状態とも言える。

霊や死後の世界を否定していた人は、死んでからも自分が死んだことを受け入れられなかったり、心霊の知識がないために、霊界での浄化が遅れてしまう。それよりも特定の宗教の教義を頑固に信じ込んでいる人はもっとやっかいになる。
無知よりも誤解のほうが問題が大きい。

供養を怠ったために先祖の霊が災いを起こすということは、正直、その先祖霊はあまりに程度の低い霊と言うことがいえる。
それだけまだ地上界に未練が残っている証拠だ。先祖霊の子孫への災いの結果として精神異常という症状が出る場合がある。
これについては萩原玄明の本に詳しく書かれている。

死は全ての人に起こる。死は100%起こる。死は、当たり前の出来事であり、確実であり、絶対である。
死について考えることは、生からの逃避ではない。死に顔から、その人の生き様が見えてくる。





 1月15日

私は両親をともにガンで亡くしているが、その葬儀のときに疑問に思うことが多くあった。

戒名を付けるのになぜ何十万円もの金がかかるのか?
初七日、四十九日法要など・・・なぜこの日数なのか?

その意味を聞いてもはっきりした答えは返ってこない。「昔からのしきたりだから」「他のみんなもそうしているから」
たいていはこんな答えだ。

たぶん意味もわからず儀式に従っている人がほとんどじゃないだろうか。
集団心理の怖さというか、みんながやっていることを、自分だけやらないと、何かすごく間違いを犯しているような、強迫観念を感じる。

僧侶に「死」について尋ねても、ありきたりの通説しかかえってこない。ようするに僧も本当のことは知らないのだろう。
ただ、昔から教えられてきた形式に則り、粛々と儀式を行なう。

こちらもわからないから、僧侶の言うとおりにするしかない。それが、なんか悔しいのだ。
だから、死について本当のことを知りたいと思った。





 1月26日

私の家の両隣りには対称的な人が住んでいる。
どちらも80歳過ぎのおばあさんなのだが、片方は、数年前に夫に先立たれ、子供もいなくて、独りで暮らしている。
時々来るヘルパーさんに世話をされてはいるが、身体も弱り、会うたびに「早く死にたい」と漏らしている。

もう片方は、家族に囲まれて暮らしているが、なんとなく家族から疎まれている様子が伺える。

寂しそうなのだ。
どちらもあまり幸せそうではない・・・

こういう両極端のケースを見せられている、ということも私にとってのひとつの学びなのかもしれない。






 1月30日

まだ失業する前、会社の昼休みに石ノ森章太郎の「日本の歴史」という漫画を読んでいた。

その中の、邪馬台国の巻あたりを読んでいたとき、どこからともなく草木の匂いがしてきた。
それが不思議と、その匂いがとても懐かしく感じ、この匂いを知っているという実感があった。
そして、それは2000年前ころの日本の集落の匂いだ、という思いを持った。

たぶん、そのとき読んでいた漫画に影響されてそう思い込んだのかもしれないが、とにかく、そんな匂いがしたのと、それをすごく懐かしく感じたことは確かだった。

しかし、その場は会社の建物の中であり、そこは工場で油の臭いが充満しており、建物の周辺は住宅地で森林は無い。
そして、その草木の匂いを感じたのはその日だけで、しかもほんの5分ほどだけだった。

あれはいったい何だったのだろう・・・?







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