東インド、パーラ朝、カリヤーナ王室生まれ。三人兄弟の二番目。幼い頃より聡明さ、知性の豊かさを示す。ナーランダ大学で、ヴィシュヌ、シヴァの教え、ヒンドゥー教のタントラを始めとする多くの教義を学び、音楽や論理学など64の教科を22歳までに修得した。また、無著、ヴァスヴァンドゥ(世親)による弥勒菩薩の教え、ナガールジュナ(龍樹)による文殊菩薩の教え、ティロパ、ナロパによるヴァジュラダーラ
Vajradhara の教えなどについても学んでいる。
アティーシャが学んだ師は150人にも及んだ。アティーシャは28歳の時、インド仏教の部派の1つ大衆部で僧院長シラーラクシタ
Shilarakshita から得度を受け、合わせてディーパンカラ・シュリージュニャーナの名を貰った。名前の意味は「光のごとく辺りを照らすような知識を持つ人」である。また、シュリーヴィジャヤ王国のスマトラ島に13ヶ月間留学し、ダルマラクシタ
Dharmarakshita にも学んでいる。
アティーシャはインドに戻り、そこでもまた多くの導師の教えを受けている。アティーシャは論客としても活躍し、しばしば異教徒との論争で勝利している。それらの功が認められて、ヴィクラマシラー寺院で僧院長の地位を得した。
アティーシャが翻訳編集した著書は200を超え、チベット仏教界の進展に大きく貢献した。また、チベットでいくつかのサンスクリット語の原典を発見し、自身で筆写を行っている。自身の著作もいくつかあり、仏教以外にも医療、科学の著作がある。 アティーシャは少年時代から探求の道に入り、仏教の中心地であるマガダ国に行き,在家密教行者のもとで無上瑜伽タントラの修行を積み悉地(しつじ))に達したといわれている。悉地はサンスクリット語でシッディ(siddhi)といい。ヨーガでは修行が完成して、霊的な能力を得られることをいう。
あるとき仏陀がアティーシャの夢の中に現れ「いかなる執着があって出家しないのか」と諭された。それで29才の時ブッダガヤで出家したとされる。出家後は小乗の仏典や論書、アビダルマを学び三蔵法師となった。
仏教にもっとも必要なのは菩提心であると教えられたアティーシャはインドでは遠い外国にあたるスヴァルナ・ドヴィーパ(今のスマトラかビルマの南部)まではるばる旅をしてダルマキルティー(又はダルマパーラ)に会い、1012年から10年間教えを受けた。このダルマキルティーこそ仏教論理学のダルマキルティーと同名なのでチベット人にセルリンパと呼ばれたその人である。セルリンパは唯識のアサンガの法灯から数えて11祖にあたる。
大乗仏教では自分一人が輪廻の苦しみから離脱するために悟りを目指す」のではなく、「苦しんでいる多くの衆生を救うために、できるだけ多くの衆生を救うことの可能な仏陀の心と体を手にいれよう」と、願うことからはじまる。こうしてアティーシャは大乗、小乗、顕密あらゆる仏教を学んだのである。特にセルリンパへの敬慕は熱く、後年までセルリンパとの出会いを語るとアティーシャは涙を浮かべたという。
※ セルリンパ「入菩提行論要義」
「自分と他人をすみやかに救おうと願う者は自他の置換という最高の秘密を行なうべきである。」
「はじめに自他の平等性を努めて訓練すべきである。すべての人の安楽と苦悩は等しいのであるから自分のように護られねばならない。」
エピソードによると1024年ころグゲ国王イーシェ・ウーがイスラムとの戦争中に捕虜になり、王の身長ほどの莫大な身代金を要求された。甥のチャンチャヴ・ウーは国中から砂金を集めたが頭の重さの量ほど足りなかった。しかし国王は「自分は老いて、この先長くは生きられないので、自分の命はいらないからこの身代金でインドから高僧を招くように」と伝えて亡くなる。
再三の招きにも関わらずアティーシャのチベット入りはヴィクラマシラ寺院の信徒が強固に反対していた。そこで新しくグゲ国王となった甥のチャンチャヴ・ウーは、前王の遺言通りヴィクラマシラ寺院に莫大な黄金を送った。板挟みになったアティーシャは自分の守護尊のターラ菩薩に祈った所、「チベットへ行けば命は短くなるがインドに留まるよりも、多くの人を幸せにする事が出来る。」と告げられチベット行きを決心する。
1040年、61歳になったアティーシャは、チベットに向かうと反対されるのでカトマンズのスワヤンブナートを参拝するという名目でインドからネパールへ向かった。ネパールで1年余を過ごしたのち、1042年、いよいよヒマラヤ山脈を越えて西チベットのトリン寺に到着した。